28. 性的指向・性自認

2024年6月14日 (金)

住民票と同性パートナーシップを巡るエトセトラ

はじめに

 今年になり、同性パートナーシップと各種制度に関していくつか話題になった報道がありました。ひとつは、令和6年3月26日、犯罪被害者遺族給付金の給付に関し「犯罪被害者と同性の者は犯給法5条1項1号括弧書きにいう『婚姻の届け出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にあつた者』に該当し得ると解するのが相当」と最高裁が判示したことです。

(NHK)犯罪被害者遺族給付金で初判断「同性パートナーも対象」最高裁

 もうひとつは、令和6年5月2日長崎県大村市において、パートナーシップ宣誓制度に基づき宣誓した男性カップルに対し、当事者の要望に応じて住民票の続柄欄に「夫(未届)」と記載して写しを交付したことです。

(毎日新聞)男性カップル世帯住民票、続き柄欄に「夫」記載 長崎・大村

 いずれの件も一定の動きではあるものの、それぞれになおあいまいな点を残している現在進行形の出来事であるとも思われるので現時点で確定的に評価をすることは困難ですが、とはいえ現時点で整理できることはしておく必要があるとは思いますので、少し調べたことなどを記しておきます。

戸籍と住民基本台帳の関係

 まずそもそも論を抑えておきます。何かの手続の際に個人の特定等のために求められる書類には、戸籍抄本や住民票の写しがあります。それぞれ戸籍法に基づく戸籍、住民基本台帳法に基づく住民基本台帳の一部を抜粋したものです。総務省の資料[資料PDF]では、それぞれの役割について、戸籍については「日本の国籍を有する者にあっては、身分関係を公証する唯一の公簿」、住民票については「居住関係を公証する唯一の公簿」とされており、それぞれに役割が異なっています。なお身分関係とは、今日的には夫婦や親子、きょうだいなどの親族関係という意味です(おそらく戦前には「平民」「華族」といった別も記載され、そのため「身分関係」という表現が現時点でも残っているものと思われます)。従って本来、婚姻関係の公証は戸籍によって行われるべきものということになります。

 一方現実的に、本籍地以外の場所に引っ越すことが別段珍しくなく、また家族等と離れて暮らしたり一緒に暮らしたりも多様であり、かつ各種の行政事務処理上その証明が必要なことが多いため、実際にどこにどういう世帯で住んでいるか等を公証するのが住民票ということになります。またあわせて住所地においても住民個人の同一性を明らかにするため、氏名、出生の年月日、男女の別等も戸籍と一致する内容を記すことになります。ただし続柄については、民法上の親族関係のある世帯員については、戸籍由来の続柄を記載することとされていますが、逆にいえば民法上の親族関係ではない世帯員については、それ以外の表記もあり得るということになります。住民基本台帳事務処理要領(昭和42年10月4日自治振第150号自治省行政局長等から各都道府県知事あて通知)[抜粋版PDF]では、例示的に「妻(未届)」、「妻の子」、「縁故者」、「同居人」等も示されています。こうした記載が許されているのは、住民票における続柄は、法律上の親族以外とひとつの世帯で暮らす場合についても、現実に沿って配慮されるべきという発想に基づいているといえるものと思います。

 ただ一方で、「夫婦同様に生活している場合でも、法律上の妻あるときには『妻(未届)』と記載すべきではない」という記載もあり、これは例えば既に法律上の夫婦関係が存在する場合には、別の人といかに仲良く生活していても婚姻届を出すことは重婚になるため不可能であるという法律上の制限に関し、住民票の記載においても配慮が求められている記述です。そういう意味では、住民票の続柄の記載については、実質と法律との両面にわたる考慮が求められているということも可能だと思われます。

犯罪被害者給付金訴訟最高裁判決が示したものとその射程

 さて令和6年3月26日、最高裁判所は、犯罪被害者給付金不支給裁定取消請求事件について、原判決の破棄、名古屋高裁への差し戻しという判決を下しました[判決文PDF] 。この訴訟は、約20年にわたり同性の方と同居して生活していた相手の方が第三者の犯罪行為により亡くなってしまったことを受け、原告人が犯給法に基づく遺族給付金の支給を申請したところ、愛知県公安委員会から対象にあたらないため遺族給付金の支給をしない旨の裁定を受けたことについて、この裁定の取り消しを求めて提訴されたものです。

 具体的には、遺族給付金の支給対象として示されている犯給法第5条1項1号の「犯罪被害者の配偶者(婚姻の届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にあつた者を含む。)」という規定について争われたものであり、高裁ではこの規定の括弧書きについては「婚姻の届出ができる関係であることが前提であると解するのが自然であって、上記の者に犯罪被害者と同性の者が該当し得るものと解することはできない」としていました。

 その点について、最高裁判決は、犯罪被害者等給付金の目的等を踏まえると、犯罪被害による精神的、経済的打撃を受け、「その軽減等を図る必要性が高いと考える場合があることは、犯罪被害者と共同生活を営んでいた者が、犯罪被害者と異性であるか同性であるかによって直ちに異なるものとはいえない」と述べ、「犯罪被害者と同性の者は、犯給法5条1項1号括弧書きにいう『婚姻の届出をしていないが、事実上婚姻関係の同様の事情にあつた者』に該当し得ると解するのが相当」と示しました。ただし、原告と被害者の関係が実際に「婚姻の届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にあつた者」に該当するか否かについては、原審に差し戻して審理させることとしています。なお、今崎裁判官による反対意見、林裁判官による補足意見がついています。

 この判決は、私の理解では、法文上の表現として「配偶者(婚姻の届出をしていないが、事実上婚姻関係の同様の事情にあった者)」と記してあった際、内縁関係や事実婚など、事情や意図があって婚姻届を出していないけど、同居している、生計を一にしている、挙式している、周囲にそのように表明し扱われているなど実質的に婚姻関係を結んでいる者であり、すなわち条件が整えば法律上は婚姻届を出すことが許されている異性間に限定される(高裁判決はそのような発想によるものと思われます)、と固定的に結び付けて考えてならない、ということを言っているのだと考えます。

 言い換えれば、婚姻に準ずるものとしての内縁関係等に関する法的保護のきっかけが大正4年の大審院判決(大正四年一月二六日大審院民事連合部判決)に求められており、これが婚約関係(当時の言葉では「婚姻予約」)についてのものであっため、当然に男女間の法律的婚姻を前提として考えられていたことを今なお実務上引きずり続けていたことについて、現代的視点に立脚し直し、民法上婚姻が男女間に限定されていることに必ずしも囚われることなく、同性間でも「事実上婚姻関係と同様の事情にあった者」に該当し得る場合があると明示したものと受け取ることが可能であり、そういう意味では画期的といえます。

 一方でこの判決は、犯給法の趣旨目的に注目したものであり、よって林裁判官による補足意見で記されている通り「あくまでも犯罪行為により不慮の死を遂げた者の遺族等への支援という特有の目的で支給される遺族給付金の受給権者に係る解釈を示したもの」です。同様の表現は他にも多数の法令で見受けられますが、それぞれについて異性間に限られるのか、同性間も許されるのかはそれぞれの法令や制度の目的等に沿って個別に検討される必要があるものであり、この判決をもって他制度の同様の表現について一律に「同性も許されるべきだ!」というのは、いささか早とちりだと思われます。一方で、異性間に限定されると判断する場合には、「(日本国憲法が同性婚を想定しておらず、)民法上同性同士の婚姻届は不受理」という現状であっても、そのように限定する他の合理的な理由が求められることとなりますので、それもまた難儀するかもしれません。

 また同性間において「実質上婚姻関係と同様の事情にあった者」がどのように判断されるべきかについては本判決には記述がなく、本件の原告と被害者の関係の具体的な判断についても高裁に委ねてしまっているので、最高裁がどう考えているかは、よくわかりません。ですから本件については高裁が判断することになりますし、他のケースについてはまずは申請等をうけた行政庁が判断するということになります。かなり悩ましい問題が残されているように思います。なお最高裁による判決文には、本件原告(ないし被害者)の住民票の続柄がどうなっていたかは記述がなく、不明です。

大村市の住民票の記載について

 さて報道によると、今年5月に、長崎県大村市は、市内在住の同性カップルについて、世帯合併の手続きを行う際、その希望を踏まえ、世帯主以外の方について「夫(見届)」と記載しました。なお同市はパートナーシップ宣誓制度を導入しており、この2人は宣誓の受領証を取得していました。住民票の記載は市町村長の責任で行われるものであり、それに則って判断したこととされていますので、ここではその当否を問うことは控えます。ただ、裁量において行った事務であっても、いくつかの点についてその判断の理由等について説明はあってもよいかとは思うのです。

 総務省は、平成30年6月8日の衆議院法務委員会において、「住民票の続柄の今の記載について、同性パートナーについてはどのようになっていますか」という質問に対し、「委員お尋ねの同性パートナーにつきましては、戸籍制度では同性結婚は認められておりませんで、親族関係があると言えないため、世帯主との続き柄につきましては同居人と記載することとしております」と答弁しています[同委員会議事録]。冒頭に記したように、戸籍が身分を公証する唯一のものであることを踏まえ、住民票の記載もそれに準ずるべきという立場を取っているものと思われます。こうした前例があるにもかかわらず、より踏み込んで、一定の法的保護があると一般的に期待される「夫(未届)」に該当すると判断した理由は、大村市長の説明が待たれると思われます。

 もちろん、大村市のパートナーシップ宣誓制度の存在およびその受領証の取得は一つの理由であろうと想像します。だとすればその制度の実務上、どの程度法的保護を与えるべき根拠を担保しているのかが問われるのではないかと思われます。総務省の記載要領には「内縁の夫婦は、法律上の夫婦ではないが準婚として各種の社会保障の面では法律上の夫婦と同じ取り扱いを受けているので『夫(未届)、妻(未届)』と記載する」という記載があります。大村市長はこれに則ったということでしょうが、ならば大村市長は「各種の社会保障の面では法律上の夫婦と同じ取り扱いを受けている」ものと認めた理由について、このカップルに該当する根拠を示す必要があります。しかし一方で大村市長は、「一般的な事実婚と同様という認識はない」とも明言しており、ならばなぜ一般的な事実婚ないし内縁関係と同様の記載をしたのかが不明で、やはり説明が尽くされていないという印象が拭えません。

 個人的には、現在の制度上届出受理の可能性が無い方に対して、「夫(未届)」と記載するのはいささか齟齬を感じざるを得ません。市町村長の裁量をいうのであれば、あくまでも総務省記載要領における続柄の記載事項は例示(同居人の後に「等」の文字がありますから)なので「大村市パートナーシップ宣誓制度によるパートナー」といった記載を検討しても、良かったかもしれません。なお、同様にパートナーシップ宣誓制度を有する大阪府大阪市の大阪市住民基本台帳事務処理要領(p.16-17) [PDF]では、確認の上「縁故者」とする旨記されています。総務省の要領に範囲において、法律と現実と双方に配慮した記載法とも考えられます。

現時点でのまとめ

 こうして並べて述べてくると、最高裁および大村市両者のロジックの差を感じます。最高裁判決の方は、法律の趣旨目的に照らして「事実上婚姻関係と同様の事情にあった者」という言葉を素直に読んだ結論として、異性か同性かに関わらずごく近しい関係であれば犯罪被害による経済的・精神的打撃は同様に受けるであろうことを直視して結論を導くべきと観念しているように思われます。これは、同様の法文について「事実婚」や「内縁関係」という概念を無意識に経由していたものをショートカットしたことにより導かれた結論であると思われます。結果として、同様の記載がある法令について、同性間でも該当し得るか所管省庁が一つずつ判断していく作業が求められることとなりますが、これは最高裁判決ですから致し方ありません。

 一方で大村市長の判断は、同性間においても内縁関係同様の続柄の表現に踏み込んだ割には「一般的な事実婚と同様という認識はない」と述べ、「じゃあいったい何なんだ」というツッコミをしたくなるような消化不良感を残します。結局のところ、事実婚や内縁関係という明確な定義のない概念を経由して同性パートナーシップの社会におけるあり方に一石を投じたものの、結局自らの行動について説明しきれず、「記載例が追い付いていない」と最終的に国に責任を負わせる発言をせざるを得なかったのではないかとも思います。

(NHK)同性カップルの住民票に「夫」記載 大村市長「できると判断」

 結局、婚姻に準ずる関係とも捉えられる事実婚や内縁関係という概念を経由する限り、大前提として法律上の婚姻は現時点では異性間に限られること、そもそも身分関係(親族関係)の公証は戸籍が唯一のものであり、住民票の続柄は事務効率化と利便性のために便宜的にあるものに過ぎないことなどの影響は避けることができず、したがってこれらを同性間パートナーシップに無限定に当てはめ、さらに法律上の保護等の効果を期待するのは、筋違いなのです。だからこそ、大村市長ですら「事実婚と同様である」と言い切れなかったのだと考えます。

 なお個人的には、私なりに当事者の方々のお話を伺った経験から、同性パートナーにおいても、一定の法的保護が認められ得るし、認めた方が良いと考えます。実際にさまざまなご苦労を抱えておられるからです。ただしその範囲については、例えば異性間でも内縁関係では相続権は認められない等の限定があることに鑑み、適切に設定される必要があるものと思います。また、婚姻については同居、協力、扶助の義務、婚姻費用の分担等が民法上明記され、また不貞や悪意による遺棄等は離婚事由とされることからこれらも行ってはなりません。これは、内縁関係についても同様であり、だから未届でも法的保護があるのだと考えます。したがって、同性パートナーにおいても、当然に一定の義務について課した上での保護でなければなりません(なお、現在いくつかの自治体で行われているパートナーシップ宣誓制度において、どのような義務が両人に課されているのかは、興味深い気がします)。

 民法で同性婚を認めてしまえばフルにそのようになりますが、日本国憲法第二十四条が「両性の」と書いている以上同性婚は想定していないと解するのが妥当であると私は考えており、その立場からすると憲法改正しない限り困難です(とはいえいくつかの地裁・高裁で、現行民法の規定が違憲であるという判決も出ており、この見解は絶対ではありません)。別案として民法を改正し、婚姻、養子縁組以外に親族関係を結ぶ制度(もちろんそれをパートナーシップ制度と呼称してもよいでしょう)を設ける方法は検討し得るとは思います。いずれにしても、日本は民主主義の国ですから、議論とコンセンサスが要ります。

 判例に拠らず事前に同性パートナーに法的保護を与えようとすると、このような議論をするのがスジであろうと思われるところです。とはいえ、一応法律を扱う職業に就いてはいますが、弁護士の方や学者の方ほど専門的に勉強したわけでもない素人の議論であろうとも自覚しています。ぜひともご多くの方々のご高見も拝見できれば、ありがたいことと思っています。

 なお法的な効果を抜きにして、単に続柄の表現を気にするのであれば、総務省の記載要領を改訂して例えば「同性パートナー」も例示に加えてもよいのかもしれません。いずれにしても、最高裁判決によってこの関係性が「事実上婚姻関係と同様の事情にあった者」に当てはまるかどうかは個別に判断されることになるため、そのような続柄を定めても、両人の関係を第三者に伝えやすくなる以上には、特に差し支えはないはずです。

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2023年6月14日 (水)

LGBT理解増進法案と地方自治体について

 昨日6月13日、「性的指向及び性同一性の多様性に関する国民の理解の増進に関する法律案」(第211回国会衆法第13号、ただし提出時名称)(提出時法律案修正案)が、衆議院本会議において修正の上可決され、参議院に送付されました。

 本法案については、たびたび本ブログで私の思うところを記載しています(下記参考参照)。その上で、行橋市議会の小坪しんや先生が、ブログにおいて「【LGBT理解増進法】確実に起きる、地方行政の混乱(トイレ・入湯・教育)についての警鐘。国会による「地方自治軽視」に対する地方議員として異議。」) という記事で地方行政に関する懸念を表明され、「すべての国会議員の責任」についても触れておられますので、まさに一国会議員の立場において、私の思うところを記します。なお、当記事は(当ブログの他の記事もそうですが)、政府や自由民主党、もちろん衆議院等、私が所属したり関係したりする組織を代表するものではありませんので、ご留意願います。ただし、参考記事をご覧いただければわかるとおり、過去には自民党内のこの法案の立案過程の議論に参加しておりましたので、国会議員の中では多少詳しく経緯を承知している方だとは思います。

(参考:同法案に関連する当ブログにおける過去の記事一覧)
自民党性的指向・性自認に関する特命委員会「議論のとりまとめ」等について(2016.5.4)
自民党における性的指向・性自認の多様性に関する議論の経緯と法案の内容について(2021.6.1)
LGBT理解増進法案と銭湯について(2023.3.3)
LGBT理解増進法案をめぐる私見(2023.5.16)

 なお同法案では修正の結果、「性同一性」という言葉は「ジェンダーアイデンティティ」という言葉に全て置き換えられました。一方で、衆議院内閣委員会における6月9日の質疑において、繰り返し、いずれの言葉もGender Identityの訳語であり意味は異ならないという提案者の答弁があることから、どの言葉を用いても制限されないものと考えています。とりあえずこの記事においては法案文の引用も多いのでジェンダーアイデンティティという言葉を用いることとしますが、性同一性ないし性自認、Gender Identityのいずれと解していただいても、差し支えありません。

●大前提として…

 さて本論に入る前に、既に何度も記しているのですが、この法案の目的について確認しておきます。第一条において「この法律は(中略)、性的指向及びジェンダーアイデンティティの多様性に関する国民の理解の増進」について、基本理念や国等の役割を明らかにすること云々と書いてあります。この意味は、性別を区分する要素であるところの、性的指向やジェンダーアイデンティティに関し、それが多様であり得るという「知識」の理解の増進を目指すものであり、未だにしつこくメディアが記すような「LGBTなど性的少数者への理解を深める法案」ではありません。この表現は【誤り】です。法案が政府等に要請しようとしているのは、ゲイやレズビアンの方々もおられるし、身体的な性別と自らのアイデンティティとしての性別が異なる方々も社会にはおられる、という知識を普及させることなのです。

(参考報道例)
【速報】LGBT法案 衆院本会議で与党修正案を自公、維新、国民など賛成多数で可決(テレ朝ニュース)

 一方で、本法案は、ゲイやレズビアンの方、トランスジェンダーの方の意見や内心を理解しそれに従え、ということは誰にも求めていません。したがって、本法案への反対意見において「当事者の言うことを聞かなければならないような法案だから反対」という趣旨のものを散見しますが、誤解に基づく意見であるため正当な反論ではありません。

 なお、もちろんどなたにとっても、個々の当事者の方々と友人になったりして人間関係を築き理解を深めていくことは、一般論として人生をより豊かにすることではないかと個人的には思いますが、それこそ法律で規定するべきことではありません。

 また、差別に関しては第三条において基本理念として「性的指向及びジェンダーアイデンティティを理由とする不当な差別はあってはならないものであるという認識の下に」と記されていますが、これは日本国憲法第十四条の規定を性的指向やジェンダーアイデンティティに関して確認したものに過ぎず、具体的にどういう行動が「差別」にあたるのかということも、日本国憲法同様、特段の規定もありません。したがって、この条文は具体的な対策を政府や地方自治体に求めているものではありません。

 さらにトイレや風呂等の区分についての問題や、同性婚やパートナーシップ制度、具体的な差別解消策等に関して政策的な議論はありますが、本法案はそうした議論の共通の土台を築くための知識の普及を図ることを意図したものであり、いずれの具体的なテーマに関する議論についても、この法案はそれらの是非等について日本国憲法以上に踏み込むものではありませんし、政府や地方自治体に対応を促すものでもありません。このこともぜひご認識をいただきたいと思います。

 なお「不当な差別」という表現に関し、「では正当な差別があるのか」というツッコミがたまにありますが、これは差別の不当さをより強調した表現に過ぎません。個人的には「馬から落馬」的な、日本語としてあまりスマートではない表現とは思いますが、しかしそのような表現があったとしても、羊や象、ラクダ、牛などから落馬することは実態として存在しないのと同様に、「不当な差別」という表記が法律にあったとしても、正当な差別も存在しません。

●法案が地方自治体に求めていること

 その前提において、第五条において、地方自治体に課している努力義務は、やはり「性的指向及びジェンダーアイデンティティの多様性に関する国民の理解の増進に関する施策」の策定及び実施なのです。また具体的な施策例として、第十条において「知識の着実な普及、相談体制の整備その他の必要な施策」とされており、まさに「知識の普及」が主眼であることを大前提にした書きぶりとなっており、それ以上のものではありません。

 6月9日の衆議院内閣委員会における本法案に関する質疑では、差別解消条例など既存の条例との関係が質されていました。提案者は、地方自治法第十四条を念頭に答弁を繰り返しています。地方自治法第十四条は、地方自治体の条例制定権について定めたものであり、「地方公共団体は、法令に違反しない限りにおいて第二条第二項の事務に関し、条例を制定することができる」とされています。この理解増進法案は、あくまでも地方自治体に対しては理解増進に関する努力義務しか課していません。したがって、法令違反になり得るのは、その自治体において性的指向・ジェンダーアイデンティティの多様性についての理解増進を「行わない」という条例をわざわざ作った場合くらいしか想定できず、しかも努力義務ですから、それすら違反とまで言い切れるかどうか、わかりません。

 また本法案は、同性婚やパートナーシップ制度、トイレや風呂等の区分、あるいは具体的な差別解消等について踏み込むものではないと先に記しました。その立場からすると、既存の自治体がこうした問題について既に条例や規則等を作っていたとしても、この法案が成立することによって変更を必要とするものでもありません。触れていないことに関しては、違反も何もありませんので。

●その上で、小坪先生のご懸念について

 ただ逆に申し上げれば、本法案は特に施設管理者としての地方自治体や事業主に対しては何ら具体的な影響も方針も与えるものではないものであり、しかし現場の施設において、例えばトランスジェンダーを自称する人が現れた際にどうするかといった課題に直面されているとすると、「どうしたらいいのかわからない!無責任!」というお話になることは十分理解できます。この点について現時点での思うところを記します。

 まずこうした話になると、公衆浴場・公衆トイレ・更衣室等といろいろなことについて一度に話が語られますが、実はこの中で、公衆浴場だけは法的位置づけがあるため対応は明白です。というのは、公衆浴場法という法律があり、厚生労働省が衛生等管理要領を設けており、おおむね七歳以上の男女を混浴させないことが規定され、答弁によって「この要領で言う男女とは、風紀の観点から混浴禁止を定めている趣旨から、身体的な特徴の性を持って判断する」「公衆浴場の営業者は、身体は男性、心は女性という方が女湯に入らないようにする必要がある」(令和5年3月29日衆議院内閣委員会堀場幸子委員質疑への厚生労働省佐々木政府参考人答弁)と述べています。重ねて記しますが、本法案はこうした内容に影響を与えるものではなく、政府方針は維持されることとなります。したがって、公共施設内等に浴場を有する地方自治体は、業として行う訳ではないため公衆浴場法の直接の対象ではありませんが、引き続きこの要領等に準じた形で管理をしていただくべきものと考えます。

 公衆トイレについては、法的な位置づけがなく、よって所管省庁も特にありません。また、実際問題として、街中の公共施設では概ね男女の区分を設けてありますが、例えば山岳における山小屋的なトイレでは、男女共用のトイレも今なお存在したりもします。また街中においても、見張り番や管理人が常駐する公衆トイレばかりでもありません。実務的にそうした点も考慮して検討されるべきであろうと思われます。一方で、トランスジェンダーの方も、手術を受けて性同一性障害特例法に基づく戸籍上の性の変更まで完了されている方から、「内心そう思っているがカミングアウトしていない」方まで幅があり、一概に対応を決めつけてしまうこと自体も困難です。これは、更衣室についても同様です。

 またトイレに話を戻すと、私自身が先日、コンビニの女性用トイレからどう見ても外見上は男性の方が出てくるのを目撃したこともあり、でももしかしたら急に腹痛に襲われてしかし男性用トイレがふさがっていてやむにやまれぬ行動だったかも知れず、こうした場合をそもそもムゲに制限してしまうような対応も、自分が急にお腹が痛くなった時のこと(人は時として急にお腹が痛くなるのです)まで考慮すると極めて悩ましいものがあり、要するに女性用トイレの管理のあり方は、ジェンダーアイデンティティの問題にとどまるものではなく、かつそもそも一定の利用者の自律性や運用の柔軟さも求められるものともいえるでしょう。

●鍵になるのは…

 そうした中で本法案において鍵になるのは、第八条に定める政府の「基本計画」と、第九条の「学術研究」、そして追加された第十二条に定める「指針」であろうと考えます。もちろん、いずれも他条文と同様に「性的指向及びジェンダーアイデンティティの多様性に関する国民の理解の増進に関する施策」の基本計画やそのために必要な学術研究、またこの法案に定める措置の運用に必要な指針、ということになりますが、現場で必要なことなのであれば、関係する内容について研究を行い、基本計画に含めることは十分考え得ることです。

 本来、性的指向及びジェンダーアイデンティティについての理解増進を図るにあたり、或いは具体的にどのような内容の理解を求めていくかについては、提案者が具体的に提示をしてい必要があるものと考えます。自民党ではQ&Aを数年前から用意しています。これはあくまでも一政党の中で検討されたものに過ぎませんし、今課題となっている公衆トイレ等について直接的な回答があるわけでもありませんが、自民党としてはこういう内容をイメージしているというものです。もし理解増進のお役に立てるのであれば、自民党の各級議員がこのQ&Aをベースに講演活動をして歩くことも可能でしょう。そして本法案が成立すれば、今後は政府において、学術研究の実施、基本方針や指針の策定を行うこととなりますが、自民党はこの内容をベースとしつつ、足らざる点をさらに議論して補っていくこととされるのではないかと考えます(なお個人的には、他の政党はどのような内容を念頭に「理解増進法案」を提出されたのか興味深いものと思っていますが、私の知る限りでは特段示されたものはありません。いささか無責任ではないかという気もします)。

 いずれにせよ今後仮に本法案が成立した際、それを受けて地方自治体において具体的なアクションを検討するにあたっては、まずは政府において今後学術研究や、基本方針および指針の策定が行われることを踏まえ、その策定を待ってからご検討いただいてもよいのではないかと考えます。むしろどのような内容を基本方針や指針に含めるべきか、地方自治体の立場から政府にご提言いただいてもよいかと思いますし、個別の自治体や地方六団体等から、それらの検討の場に地方自治体代表を含めるべき旨の申し入れを政府に行われても良いでしょう。もちろん地方自治法第十四条や第十五条に基づく条例制定権や規則制定権は自治体にありますし、地方の実情に応じた対応を妨げるものではありませんが、あまり各自治体よりに対応がテンデンバラバラというのも、住民にとって困ることにもなるものとも思います。そうした事態を防ぐためには、まず政府の基本計画や指針等について地方自治体その他の関係団体も参加して検討を行い、その上で定められた基本計画や指針に則って、各自治体の条例や規則、マニュアル等を整備するような手順で進められると、スムーズでしょう。

●補遺

 なお、小坪先生のブログでは、骨太の方針(経済財政運営と改革の基本方針2023)原案との整合について触れられていますが、本法案は地方自治体の計画策定については規定しておらず、該当しません。確かに国の法律で、地方自治体に計画策定を求めるものが多すぎるため現在その整理を行っているのは事実です。例えば、昨年制定されたこども基本法では、都道府県および市町村にこども計画を定めるよう努力義務を課していますが、その際別の法律(「子ども・若者育成支援推進法」「子どもの貧困対策の推進に関する法律」等)に定める計画と一体にしてよいこととしており、事務の合理化を図っています。また政府においても見直しが行われており、そうした文脈の中でこの骨太の方針の規定があるものとご理解いただければ幸いです。また委員会審議のあり方については、私自身が他委員会の委員長を務めているものとして口を出すことは厳に慎むべきものと考えます。また、財源については地方自治体に具体的に何か義務付けが行われれば別途措置されるべきこととは思いますが、現段階で具体的に何か施設改修を求めるものでもない以上、法案に触れていないことをもって必ずしも不適切であるとは思いません。ただし当然ながら、今後必要に応じて議論されるべきこととも考えます。

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2023年5月16日 (火)

LGBT理解増進法案をめぐる私見

 5月13日、自民党性的マイノリティに関する特命委員会内閣第一部会合同会議が行われ、いわゆるLGBT理解増進法案が部会長一任となりました。その後16日には、政調審議会および総務会という自民党の党内手続きは完了しました。私は、後に記す理由により、最近の党内のLGBTに関する動きには一線を画しておりましたが、さはさりながらこれまで推進していた立場ではあった責任も感じたため、部会での法案審議3回目となった13日の会議には出席して、法案の目指す意図等についてお話しし、議論を進めてほしい旨意見をいたしました。その中で、いろいろ思うところがありました。

 またその関係で、行橋市議会の小坪しんや先生のブログにて、私のブログを引用していただき、議論をしていただいたことに気が付きまして、そちらにもお返事しなければならないとも思いましたので、改めてこのブログであわせて思うところを記します(お返事が遅くなりまして申し訳ありませんでした…)。

 なお、同法案については既に総務会で了承されたことから、法案の具体的な文言記述を修正したり、そのための意見をしたりする権限は私にはありません。よって語句や表現などについては具体的には申し上げません。今後、国会に提出されれば、両院での審議の機会などで議論されることになろうと思います。また、法案にあわせて性同一性という言葉を遣っていますが、Gender Identityの訳語という意味以上に何かがあるわけではありませんので、性自認という言葉で読み替えていただいても差し支えはありません。

◆「性的少数者への理解を広めるため」の法案ではない

 今回の法案を巡る報道でいつも気になるのが、この法案について「LGBTなど性的少数者への理解増進を図る法案」(産経新聞)、あるいは「性的少数者への理解を広めるための『LGBT理解増進法案』」(朝日新聞)という表現をされることです。敢えてこの二つの新聞を取り上げていますが、多くのメディアで同様の表現をされます。

・「LGBT法案、自民が修正案了承 保守派に配慮、性自認→性同一性に」(2023年5月12日、朝日新聞)
・「LGBT法案一任 自民保守系から不満噴出」(2023年5月13日、産経新聞)

 これらの表現は、いずれも【誤り】です。

 今回の法案で国等に課している役割は「性的指向及び性同一性の多様性に関する国民の理解の増進」です。あくまでも、「性別」を構成する要素である「性的指向」および「性同一性」が多様であることという「知識」に関する国民の理解の増進を図るよう政府に求めているのであって、「性的少数者への理解」の増進を図るものではありません。そもそも、「同性愛やトランスジェンダーは病気であり治すべきもの」「自分の意志で選ぶもの」といった性的指向や性同一性に関する誤った理解が多くの当事者を傷つけていることに着目し、その対応として政府等に正しい知識の普及啓発を行うよう求めるのが、本法案の趣旨です。

 それが、「性的少数者への理解」という話になると、「当事者の方々の置かれている心情や意見を理解しなければならない」という受け止めとなり、よって「女子トイレや女子風呂にトランスジェンダー女子の方が入れるようにしなければならない」ということを政府や自治体が進めるという懸念につながることとなります。先日の会議でも、そうした受け止めを前提に話をされる方が少なからずおられた気がします。

 私はことあるごとにこの話をしていますし、ブログにも既に記していますが、未だに多くのメディアがそのように報じ、また一般の人はともかく議員まで同様の理解をしていることには、敢えて意図を持って誤解を拡げようとしているのではないかと疑いたくなるような気にもなります。ただ、プロの議員間の議論において誤解に基づいて賛否を述べられても、「それは違ってますよ」という親切な指摘こそあれ、賛否については無視されるのは致し方ないものかもしれないなあとは思います。また、誤解される恐れがあるというお話をされるのであれば、ただ反対するのではなく、「どうやって誤解を生まないように改善するか」をご提言いただけると、建設的であっただろうと思います(そういった観点に立ち、条文の見直しをすべきというご意見も会議ではありました。フェアなご意見だと私は受け止めています)。しかしそれをせずに「誤解を招くから反対」という主張は、ただ「反対するための反対」にも受け止められるようにも思いました。それが私の誤解であることを願っていますが。

 また逆にこの法案は、さまざまな困難に直面している当事者の方々から、こんな法案じゃ役に立たない、差別を明確に禁止すべきという指摘もされます。そのぐらいに、誰かに権利義務を課したり制限したりする内容は含まれていません。ただ個人的には、正しい知識が普及することにより、困難が解消することも期待されるとは考えています。急がば回れ、です。なお法律で具体的に禁止されていても、あまり知られていないためになかなか効果が限定的である法律もあります。例えば身体障害者補助犬法においては、不特定多数が利用する施設の管理者は、身体障害者補助犬(盲導犬、聴導犬、介助犬)の同伴を原則的には拒んではならないこととなっていますが、残念ながら未だに飲食店や医療機関でも同伴拒否事例が散見される状況です。ですので、LGBTの方々が直面する困難の解消においても、法律による禁止の効果には限界があることも認識して、検討される必要があろうと思います。

◆トイレや風呂等について

 「実際にジェンダーレストイレが新宿にできたじゃないか」とか「海外でトラブルが起こっているじゃないか」といったことを言われます。小坪先生のブログにおける「地方議員としてのアンサー」も、その点についての懸念が根っこにあるものと受け止めています。

 まずこの問題は、社会において「性別」を決める要素に「身体的特徴による性別」と「性同一性(または心の性、性自認等と表現されるもの)」(他に、服装による性別、戸籍上の性別等が考えられます)があるという状況の下で、これまで「身体的特徴による性別」により区分されていたトイレや風呂、更衣室といった局面について、多くの方の場合身体的特徴による性別と、性同一性が一致していることを前提に作られているため、身体的特徴による性別と性同一性が異なる方がいるという課題をどう解決するか、ということだと理解しています。同様の局面は、スポーツの世界でも課題になり得るものと思っています。そして場合によっては、当事者の方々とそれ以外の意見の対立という構図にもなり得る問題であり、社会として無視できない、向き合わなければならない課題であるというのはご指摘の通りだと思います。

 まず、LGBT理解増進法案は、この点に関しては敢えて【触れていない】【ニュートラルな立場】であることは申し上げます。上記のように、知識啓発を求めるに留まっており、どちらに肩入れするか、どちらを優先すべきかについては述べていません。それは結局、そうした問題を議論するための共通の知識である性同一性の概念について共通理解が広がらないと、議論がかみ合わないからです。まず議論の土台をつくってから、議論しましょう、という整理によるものです。

 その上で、個人的な見解はこちらのブログ(「LGBT理解増進法案と銭湯について」)に記した通りです。要は、男女の区別がある場所において身体的性別に拠り区別されるべきか、性同一性に拠り区別されるべきかは、管理者の権限により当事者の方もそれ以外のことも考慮にいれて判断されるべきだと考えているということです。その上で小坪先生のご指摘に応えるとするならば、公衆トイレの話の場合、現時点において、その場に管理人がいてチェックしているようなものはなく、結局身体的特徴でも性同一性でもなく、本人の意志によって自主的に区分されている実態を踏まえ、それを変える必要があるのかないのかということがまず論じられるべきではないかと個人的には思います。ただ公衆浴場やプール等の更衣室の場合は、人前で裸になる(トイレは、なりません)場面があり、管理人が入場をチェックしているという施設の性質上、身体的特徴による性別で区分されるという現行の一般的な取り扱いを特に変更する必要はないものとも考えます。何故か、身体的なものよりも精神的なものが優位であると考えられる傾向があり、それ故にこの件についても身体的特徴による性別よりも性同一性による性別を優先させるべきと主張する向きがあったとしても、正直その根拠は薄いと思われます。そもそも何故区別が必要なのかを考えて、トイレや風呂、更衣室等の性別の区分について検討されれば差し支えないものと考えます。なお重ねて記しますが、LGBT理解増進法は、性別には性同一性と身体的性別とがあるという知識を普及させることが眼目であり、性同一性が身体的性別に優先されるとはどこにも書いてありません。

 その上で敢えて「理解増進法案」の精神に則って申し上げれば、誰でも利用可能な公衆トイレの話ではなく、職場等限定的な局面において、トランスジェンダーの方で悩んでいる方がいれば、人事担当者はその悩みを馬鹿にしたり些事であるなどと軽視したりせず誠実に受け止めて、個別に対応を適切に考えていただくことが望ましいでしょう。特定の職員の方が、職場の周りの方々も含めてご理解が得て、ご自身の望む性別のトイレの利用を認めることは、別段何も差し支えないものと考えます。経済産業省のトイレ利用に関する訴訟は、あくまでも、職場のトイレという限定的な場面における個別の当事者の方の相談に対する人事担当者の対応が適切であったか、そもそも性同一性に対する無理解により本人を傷つけてしまっていたのではないかということが問われているものであり、公衆トイレまで含めて社会全体の一般通念に対して異議申し立てをするようなものではないと考えます。

 小坪先生のブログの文脈から解するに、LGBT理解増進法案が、マジョリティへの権利侵害や不利益処分と認識される可能性を導き得るのではないかという見解かと思われますが、これは先に記した「性的少数者への理解」という誤解に基づいて解釈されればそういう方向になり得るかとも思われますので、まずはそうではないということを、共に社会に普及していただけるとありがたいことだと考えます。その上で、男性女性の区分けを維持しつつ、マジョリティvsマイノリティという構図ではなく、個別に丁寧に解決を考えるべきものではないかと考えます。冒頭に記したように、LGBT理解増進法案の個別の文言には触れませんし、まさに「理解増進法」という枠組み上あまり法文でその内容に踏み込むのは慎重な方が良いのではないかとは思いますが、例えば国会質疑における答弁等で、立法者の意図を何らかの形で説明させ議事録に残すということは考え得るかとも思います。また公衆浴場については、公衆浴場法があり厚生労働省が所管していますので、見解を質して議事録に残すことも可能でしょう。

 なお、LGBT問題特にトランスジェンダーの方の問題とジェンダーレス化を混同して語る向きがありますが、これは似てもって非なる問題です。トランスジェンダーの方は、むしろ「男性」か「女性」かいずれか確固としたアイデンティティを確立されています。その上で「男性として生きたい、ただし身体的特徴が女性だ」とか、「女性として生きたい、ただし身体的特徴が男性だ」という悩み方をされているのがトランスジェンダーの方なのです。したがってその悩みの解決に「社会の方が性別差を無くしてしまおう」というのは誤りであり、むしろせっかくどっちかの性別で生活したいと望んでいる方の希望を無にしているようなものです。例えば学校の制服であれば、「私は男の身体だけどかわいいスカート着て生活したい」とか「僕は女の身体だけどかっこいいブレザーを着て生活したい」という性同一性を持つ生徒さんがいるとして、その解決策は、身体的男子がセーラー服を着たり、身体的女子が学生服を着たりする選択肢を校則上ないし個別に認めることであり、制服を男女共通のダサイ服にすることではありません。正直、この解決策は全員を不幸にすると思います。しかし実際に学校の制服でも「ジェンダーレス制服」と称して上記のようなことをしていたり、最近はトイレもジェンダーレストイレとかいうものがあったりするようです。重ねて言いますが、全く問題解決になりません。個人的には、敢えてさまざまなものを混同させて社会を変な方向に動かしたい方々もいるのかなあとも思うところです。こういうことを防ぐためにも、性的指向や性同一性に関する正しい理解が広がる必要があると強く思うところです。

◆そもそも何故自民党が取り組むのか

 小坪先生のブログを拝見すると、「新潮45」休刊の経緯による影響を記しておられます。そもそも平成28年に自民党に性的指向・性自認に関する特命委員会が設置された背景にも、たしか統一地方選挙を前に、地方議員も含めた自民党所属の方々が、性的指向ないし性自認に関して問題とされる発言を行いメディアから何度も指摘されていたという背景があったなあということを思い出しました。ですので、古屋圭司委員長(当時)のご指導のもと、まずは党内向けにQ&Aを作成し、また簡単なリーフレットを作成して各都道府県連に配布したりしました。その後、国会議員でも問題発言と指摘される案件が何回かありましたが、そのたびに特命委員会としては、その議員の方々とお話をして役員に入っていただくなど理解を拡げる努力をしてきたところです。政治家は発言に責任を持つべきですが、無知そのものは罪ではありません。学んでいただければよい。

 そうした積み重ねを地道にやってきた中で、6年前から同じような趣旨の法案について議論を続け、ようやく法案として国会提出しようかという段階になって、今まで会合で顔を見たことない方々が現れて「議論が拙速」とか「荒井秘書官の発言で動くのはおかしい」とか「今動く必要性が感じられない」いった今更な理由で反対意見が述べられたり、今なお事実誤認に基づく発言があったりするのは、長年議論を積み重ねてきたものとしては、いささかやりきれない気分になります。また、新型コロナウイルス感染症に関して感染者への不当な差別について法制化を頑張っておられて立派だなと思っていた方が、今回の件については差別について異なるご見解を持たれているようなことも見受けたりして、かなり不思議な気持ちにもなります。「今日はどんな議論があっても反対します」という単に議論を拒否する姿勢を示す方には議員としてどうかとも思うところもありました。とはいえ、先に少し触れたように、党外での議論も必ずしも納得できないようなものもあり、別段自民党だけの問題とも思いません。LGBTの問題を自分の商売のタネとしか考えていない方が仮にいるとすれば、ため息しか出ません。

 個人的には、火災現場にかけつけてリスクを冒して消火活動する消防士が、遅れてやってきた見物人に「あいつが火を拡げる犯人だ!」と指摘をされるような目に一度ならず遭遇し、まあ政治家の仕事というものは得てしてそういうものですが、本件については、すこし疲れたという感覚を拭いさることもできません。ですので、ブログで思うところを記し議論の材料を提供したこと以外は、今回はほとんど私自身は議論に参加せず、会議で一度発言するにとどまりました。そうした中で、特命委員会創設から常に真剣に取り組み続けておられ、今回も法案の議論を主導されている古屋圭司先生や新藤義孝先生、稲田朋美先生には、本当に頭が下がる思いです。

 本当に困難に直面する方々のことを真剣に考えて皆が議論し取り組めば、おのずから物事は上手くまとまってゆくものと信じています。

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2023年3月 3日 (金)

LGBT理解増進法案と銭湯について

 先日、私のブログに「同じ性別同士の者の結婚を可能とすると、どう社会が変わるか」、「同じ性別同士の者の結婚を可能とすると、どう社会が変わるか(補論)」を記しました。その記事に対して、柳沢俊介様からコメントをいただきました。ブログをご覧いただき、コメントを頂きましたことに篤く感謝申しあげます。誠にありがとうございました。

 私はブログにせよFacebookにせよ、あまり返信などに対して反応できていないことが多いのですが、今回は議論への呼びかけに対してさらに議論を深めうるコメントをいただいたものと受け止めておりますので、特例的に、柳沢様のコメントを引用する形で、私の考えを記したいと思います。なお、ブログやFacebookなどネットでの発信や返信はあくまでも私個人の任意によるものであり、今後もこの議論を続けるかどうかも含め、その対応に何の義務を負うものではないことは申し添えます。

●柳沢様のコメント

 柳沢様のコメントは既にコメント欄に表示されていますが、読まれる方の便宜のため改めて全文を引用いたします。


平素よりお世話になっております。

記事を拝読致しました。同性婚につきましてはまず憲法24条の改正が大前提だと考えておりますが、その前提の下でしっかり議論を重ねた上での事であれば良いと思います。

一方、性自認の話についてですが、橋本先生は性自認と性同一性障害を同じカテゴリで扱っておられますが、それは間違いと考えます。両者は分けて考えるべきです。

そして今通常国会でLGBT理解促進法の成立を目指していると聞き及んでおります。その法案では性自認も含めた上で、そうした方々への差別は許されないという文言を入れようとされていますが、これについては断固反対です。

理由はマジョリティである一般の女性が非常に不利益を被るからです。例えば「自分は身体は男だが心は女だ」とする人が女湯に入る事を希望し、差別条項があるために銭湯が拒めないなら被害にあうのは女性です。これを導入した米国や英国では混乱が起きているし、日本でも自分が女だと主張する男が女性を襲う事件も起きています。そのような事件が法律制定により更に増加する事を考慮すると、とても賛同できません。

更に理念法とはいえ「差別」という言葉の定義を全くしていないのも問題です。要らない分断を発生させる可能性が高いです。

ついては性自認を認める事とそうした人に対する差別条項を入れる事は絶対にしないようお願い致します。


●性自認と性同一性について

 まず、「同性婚につきましてはまず憲法24条の改正が大前提だと考えておりますが、その前提の下でしっかり議論を重ねた上での事であれば良いと思います。」と記していただきました。私は以前記した通り、憲法第二十四条の改正が必要とまでは思わないものの、改正された方が望ましいという立場ですが、議論を重ねて進めることにはご賛同いただきました。改正が必要とする考え方も、それはそれであり得るとも思います。

 次に「性自認の話についてですが、橋本先生は性自認と性同一性障害を同じカテゴリで扱っておられますが、それは間違いと考えます。両者は分けて考えるべきです。」とのことです。私は、Gender Identityの日本語訳として「性自認」または「性同一性」の二通りあるものと理解しています。ただ現時点でまだ明確な概念ではなく、それぞれに揺らぎがあるものであるとも受け止めています。もし私の理解が誤りであるということであれば、その根拠や用例をご教示いただければ幸いです。勉強いたします。

 なおお示しの「性同一性障害」は、1990年にWHOが定めた疾病の分類であるICD-10にて定義されていた病名であり、Gender Identityと同義語でないことは言うまでもありません。またその根拠となったICD-10は既にICD-11に改定され、分類が変更されています。これをどのように日本において受け止めるかは現在議論中ですが、「性同一性障害」という概念の見直しも検討されるべきかもしれません。少なくとも、確立された当然の前提としては議論されない方がよいかとは思います。

●LGBT理解増進法の取り扱いについて

 続いて「そして今通常国会でLGBT理解促進法の成立を目指していると聞き及んでおります。その法案では性自認も含めた上で、そうした方々への差別は許されないという文言を入れようとされていますが、これについては断固反対です。」と記しておられます。ここで記されているものが、「自民党における性的指向・性自認の多様性に関する議論の経緯と法案の内容について」で記した「性的指向・性自認に関する国民の理解の増進に関する法律案」(しばしば「LGBT理解増進法案」と略称されます)であるとするならば、まずこれに対して私個人は、今国会での成立を目指す主体でありません。自由民主党は本法案の今国会での成立を目指していると報道されていますが、自民党における政策の責任者は萩生田光一政務調査会長です。したがって、私が同法案の成立を目指している責任者であると認識されているのであれば、その認識は訂正していただければ幸いです。ただし同法案について賛否を問われれば、私は賛成します。

●「一般の女性が不利益を被る」とのご意見について

 柳沢様は法案への反対の理由として「理由はマジョリティである一般の女性が非常に不利益を被るからです。例えば「自分は身体は男だが心は女だ」とする人が女湯に入る事を希望し、差別条項があるために銭湯が拒めないなら被害にあうのは女性です。」とご指摘されています。この点について私の思うところを記します。

 まず銭湯の管理者には、当然にその場における正当な管理権があります。それに基づいて男湯と女湯が区分されているのです。そこに外見上男性の人が「性自認は女性だ」と主張して女湯に入ることを管理人に希望して、管理人が外見を理由にこれを拒否したとします。これはただの管理権の行使に過ぎません。現行の法制度下で、それでも無理やり侵入すれば、建造物侵入罪(刑法第百三十条)にあたり得ます。また管理人が退去を求めても、その判断を不服として言い募りその場を退去しなければ、不退去罪(同条)を構成し得ます。管理人さんは速やかに110番通報していただければ結構です。そこでその人が脅迫したり暴行したりすれば、さらに罪が重なるのみです。あとはお巡りさんに任せていただくということになります。もし念を入れるならば、普段から「他のお客様に快適に利用いただくために、管理人の判断により入浴をお断りすることがあります。ご承知おきください。」などと注意書きを掲示しておくとよいでしょう。実際に多くの銭湯では、刺青のある方についての注意書きなどが掲示されています。

 さてLGBT理解増進法案には、お目通しいただければおわかりのように、公衆浴場等の管理者の管理権に影響を与える条文は存在しません。したがって、仮にLGBT理解増進法が成立してその上で上記のトラブルがあったとしても、同様の対応をしていただければ「女性が被害にあう」ということは起きず、ただの杞憂です。

 法律によって管理権を制限している例はあります。例えば旅館業法では第五条において限定的な理由以外では「宿泊を拒んではならない」と明示しています。したがって、旅館等の管理者は、いくつかの場合を除き原則的には宿泊拒否ができません。しかし公衆浴場法には、入浴拒否を禁止する規定はありません。当然にLGBT理解増進法案にも同様の規定は存在しないのです。したがって、その場の管理者の判断により利用を拒否する形での管理権の行使は可能であると解することが妥当です。

 トランスジェンダーの方と一概に言っても、実はさまざまな方がおられます。性別適合手術を受けた方であれば、全裸になった際の外見上も性自認通りの外見です。しかし事情があって性別適合手術が受けられなかったり、そもそも内心のみにとどまっていてカミングアウトされていない方の場合は、外見上は性自認と異なるということになります。そして現時点では一般的に、銭湯やシャワールームなど男女が区分けされる場面において、外見が性器まで含めて異性と同様の方が突然入ってこられると、不特定多数の利用者がおられれば、他の人がその方を見て驚いたり困惑したりしてしまっても不思議ではないのではないかと考えます。まさに全裸なので、その方がトランスジェンダーの方であることが、見ただけでは認識できないからです。これは、女性用の風呂場であろうとも男性用の風呂場であろうともさして事情は変わらないものと思います。わざわざ言いふらして歩くわけにもいきません。その方の性自認の在り様も、プライバシーに含まれると思いますので。

 そのような状況下において、そもそも、トランスジェンダーの方で、銭湯において無理矢理にでも性自認通りの性別に入浴をしたいとまで考えている方は、私の知る限りでは、おられません。管理人の判断に従わない人に対しては、毅然と対応していただいて構わないと考えます。一方で、もちろん、性自認通りの入浴を楽しみたいと希望しておられる当事者の方はおられると思います。例えばそういう方も念頭に、皆が水着やタオルを巻いた入浴をする機会を設けるといった取り組みは、任意の取組としてあってもよいことでしょう。できれば、皆が快適に入浴を楽しめる方向で問題が解決することを願っています。

 なお将来的に、外見上異なる性別の方が全裸で風呂場に入ってきても、多くの人が「あ、トランスジェンダーの方なんだな」と普通に淡々と受け止める社会になれば、特段の差し支えも無くなり得るでしょう。現時点においても、銭湯の管理者が事前に「トランスジェンダーの方の利用があります」と注意書きをしておいて、多くの人がその意味を正しく理解して不安なく利用される社会であれば、何も問題はありません。そういう管理権の行使の仕方もあり得るものとも思います。ただ現時点で、トランスジェンダーという言葉の持つ意味がそこまで多くの方まで正しく受け止められていると思えない実情があることが、その妨げになっていると考えます(だから理解増進がまず必要だと思っているのですが)。

 なお、「米国や英国での混乱」については特に私は承知をしておりませんが、「自分が女だと主張する男が女性を襲う事件」が日本においてあったことは承知しています。誰が何を主張していようとも、人を襲えば暴行罪や強制わいせつ罪などにあたる犯罪であることは論を俟ちません。もちろんLGBT理解増進法案はこれを認めるものではありませんし、そもそも犯罪をLGBTの話として語ることが適切ではありません。

●経済産業省の女性用トイレの使用制限に関する国賠訴訟について

 とはいえ、刑法第百三十条では、建造物等への立ち入りや不退去に関し、「正当な理由がないのに」という条件を付けています。管理者の立ち入り制限が不当であるとして、後日紛争化する可能性は、現行法制下でも当然あります。日本国憲法第三十二条において「何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪はれない」と規定されている通りです。LGBT理解増進法があろうがなかろうが、その点は変わりません。

 トランスジェンダーに関する場の管理者の権限行使に関して訴訟で争われた例として、経済産業省が国家賠償請求を求めて訴えられた事件があります。原告は、経済産業省に勤務する、トランスジェンダー(Male to Female)で性同一性障害と診断されているものの医学的理由で性別適合手術を受けられず性別変更手続きができない方です。所属部署から2階以上離れた階の女性用トイレを使用するよう条件を付けられていた上、その後人事担当者や上司から「性別適合手術を受けなければ異動できない」「異動先でカミングアウトしなければ女性用トイレの使用を認めない」などと人事異動についても条件を付けられたこと、その際に「なかなか手術を受けないんだったら、男に戻ってはどうか」などと上司から言われたことなどがありました。原告は抑うつ状態となり約1年2ヶ月の病気休職となった上、10年以上人事異動していないことなどを不服とし、平成25年12月に人事院に対して行政措置要求を行ったものの認められず、平成27年11月に東京地裁に対し、行政措置要求判定取り消し請求訴訟と、職場の処遇と上司らの発言についての慰謝料、病気休職による逸失利益、治療費等の賠償を求める国家賠償請求訴訟を起こしたものです。

 令和元年12月の東京地裁判決では、女性用トイレの一部制限および上司の発言の違法性が認められましたが、原告と被告双方が不服として控訴されました。令和2年5月27日の東京高裁判決では、上司の発言は違法性が認められたものの、女性用トイレの一部制限の違法性は認められませんでした。

 地裁判決、高裁判決共に、自らの性自認に基づいた性別で社会生活を送ることは、法律上保護された利益であることを認めています。その上で、地裁判決は、性同一性障害の診断を受けていたこと等の事情(後に細かく記します)に照らしてトラブルが生じる可能性はせいぜい抽象的なものにとどまり、経済産業省もそのことを認識できたであろうと認め、経済産業省の庁舎管理権を認めた上で、原告に条件を課し続けたことは庁舎管理権の行使に当たって尽くすべき注意義務を怠ったものとして、国家賠償法上違法の評価を免れないものとしました。一方で高裁判決は、「他の職員が有する性的羞恥心や性的不安などの性的利益も併せて考慮し、一審原告を含む全職員にとっての適切な職場環境を構築する責任を構築する責任を負っていることも否定しがたい」として、女性用トイレの一部制限の違法性は認めないこととされました。

※なおこの項目については、下記資料を参考に記しています。
労働基準判例検索
(第5回)経済産業省事件再考――トイレ問題から差別問題へ・控訴審判決をめぐって(立石結夏) 

●対経済産業省国賠訴訟から見えること

 この事件については依然最高裁に係属中であり、最終的な結論は見えていませんが、この二つの判決の共通点および相違点を比較すると、いくつかのことが見えてきます。

1) 自らの性自認に基づいた性別で社会生活を送ることについて

 いずれの判決においても、自らの性自認に基づいた性別で社会生活を送ることは、法律上保護された利益であることを認めています。これは性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律(平成十五年法律第百十一号)が既に存在していることなどが根拠とされています。まだ最高裁の判断は出ていませんが、一審二審ともに認められていることから、ここが覆ることはないと思われます。したがって、今から「(戸籍上の性ではなく)性自認によって社会生活を送ることは、認められない」という議論をしても、おそらく意味がありません。ほぼ判例として確定されているものと考えます。

2) トイレの使用における設置者の管理権について

 こちらについても、いずれの判決においても、トイレの使用を規制することには法令上の規定がなく、経済産業省が有する庁舎管理権の行使として行われていると認められています。

3) 争われているのは「差別かどうか」ではない

 一審と二審で判断が分かれているのは、その管理権の行使について、一審では「庁舎管理権の行使に当たって尽くすべき注意義務を怠った」として経済産業省の判断が違法と評価されたことに対し、二審では「一審原告を含む全職員にとっての適切な職場環境を構築する責任を負っていることも否定しがたい」として、経済産業省の判断に違法性はないと評価されたことです。その差は、一審では①原告が性同一性障害と診断され、女性ホルモン投与により女性に性的危害を加える可能性が低い状態に至っていたことを経産省も把握していたこと、②女性用トイレは構造上他の利用者に見えるような態様で性器等を露出するような事態が生ずるとは考えにくいこと、③原告は行動様式や振る舞い、外見から女性として認識される度合いが高いことなどを理由とし、「トラブルが生じる可能性はせいぜい抽象的なものにとどまる」と評価していることに対し、二審では前述の通り「他の職員が有する性的羞恥心や性的利益も併せて考慮し、一審原告を含む全職員にとっての適切な職場環境を構築する責任を負っていることも否定し難い」としたことに拠ります。

 三権分立を原則とする日本憲法下において、いずれの判決に対しても立法府に属する私が是非を評価をすることは慎むべきと考えますし、現在最高裁に係属していますのでその判断を待ちたいと考えます。ただいずれにせよ、原告の利益とその他の職場の方々の利益との対立が想定され得る状況下で、どのように管理権を行使することが適切なのかが問われているということです。単に、経済産業省の判断がトランスジェンダーの方に対する差別にあたるかどうかが問われている訳ではありません。

 例えばトイレと公衆浴場だけを考えても、全裸になり不特定多数の人と広い空間を共有するのか、入り口は一緒だけど個室に入るのかと、空間構成は大きく異なります。また先にも記したように、トランスジェンダーの方と一概にいっても、診断を受け、性別適合手術も受け、戸籍変更の手続きを行った方から、今回の原告のように診断は受けたが事情により性別適合手術を受けられない方もおられますし、さらに言えばカミングアウトできていない方まで考えなければなりません。それぞれの希望も必ずしも同じわけではないでしょう。

 橋本個人としては、その方々個人の事情と、その場の事情とそれぞれを勘案して適切な折り合いをつけることが大事なのであって、一方的に「トランスジェンダーの方お断り!」とするのは如何なものかと思う一方で、トランスジェンダーの方に何らかの配慮を求めることすら「差別だ!許せん!」という話になるのも、同様に如何なものかと考えます。さらに言えば、女性用トイレにおける安全確保が心配なのであれば、誰かの使用を禁止する以外にも、防犯ブザーをつけるような別の解決策を講じることもできるのです。そうすれば、いかなる性別の人が押し入ろうとしても、利用者の安全を守ることができるでしょう。このような方策も十分検討に値するのではないでしょうか。

 一般の方ならともかく、少なくとも政治家は、何らかの対立があった場合に一方の利益のみを主張し相手を不安視し現状を守れればそれを良しとするのではなく、双方の利害得失を考慮した上でできるだけ多くの関係者が納得して気持ちよく問題が解決できる方法を目指して知恵を出し、実現するのが仕事なのではないかと個人的には考えています。

 なおご参考までに、サービス類型ごとにどのような対応が考えられるのか検討した文献として「(第1回)男女別施設・サービスとトランスジェンダーをめぐる問題(立石結夏・河本みま乃)」を挙げておきます。

4) 上司の発言について

 今回の訴訟におけるもう一つ重要なポイントは、「なかなか手術を受けないんだったら、もう男に戻ってはどうか」という、原告に対する上司の発言は、「原告に対する業務上の指導等を行うに当たって尽くすべき注意義務を怠ったもの」(一審判決より)として、いずれの判決においても国家賠償法上違法とされていることです。これは、戸籍上の性別とアイデンティティとしての性別が異なっていること、医学的理由により手術を受けられないことの双方がいずれも本人にとっても不随意であり、結果として深刻な葛藤に陥っているという本人の状況を全く理解も顧慮もせずに、不用意に発せられた言葉だからであろうと思われます。こうした発言は、発言者はさしたる意図なく、おそらく全く悪意なく発した言葉であろうと思うのですが、一方で発言された側は全くの無理解に深く傷つくことになることであり、単にコミュニケーションをこじらせる原因にしかなりません。

 そして私は、多くの当事者を苦しめているこうした発言が、性自認が多様であることについての無理解から発せられているのではないかと考えています。例えば、必ずしも戸籍上の性別とアイデンティティとしての性別が一致しない方が存在すること。そのことは当事者にとっては不随意でありどうにもならないこと。法律によりそれらを一致させるための途は設けられているものの条件があるため必ずしも皆が達成できるわけではないこと。そしてなかなかこうした事情が理解されないために多くの方が苦しみ、実際に自殺の要因として挙げられていること。せめてそうしたことを知識として知っているだけでも、当事者の方々を不必要に傷つけることは減るでしょうし、トラブルも少なくなるものと考えます。

 一方で、この上司の人を「差別者だ!」と糾弾したところで、その人は上司としての立場を失うかもしれませんが、何が悪かったのかを学ぶ機会もなく、また繰り返してしまうかもしれません。もしかしたら、もうこの問題には触れるのも嫌だということにも繋がります。だとすれば何のために糾弾するのかという話にもなり得ます。糾弾は、目指すべき融和と共生のある社会に役立つのでしょうか。このあたりは、当事者側に立った活動をする方々にも、できれば少し考えていただきたいことです。

 日本国憲法第十四条は「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」と定めています。これを踏まえれば当然に性自認によっても差別されない社会を目指すべきだと思います。一方で、法律で禁止すれば差別はなくなるというほど底の浅い問題だとも考えません。知識の普及や個別の現場における具体的な対応策のコンセンサス形成など、地道な取り組みが大事だと思います。「急がば回れ」です。だから、私は、理解増進法をまず考えるべきだと思っているのです。

●差別の定義について

 大幅に遠回りしましたが、柳沢様のコメントに戻ります。「理念法とはいえ「差別」という言葉の定義を全くしないのも問題です。要らない分断を発生させる可能性が高いです」とのことです。確かに「差別」という言葉は定義しづらいところがあります。ですので、私はできるだけ「差別」という言葉を遣わないように議論をしていますし、例えば先の判決も「差別」という言葉は遣われていません。一方で、先に挙げた日本国憲法や、障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律(平成二十五年法律第六十五号)部落差別の解消の推進に関する法律(平成二十八年法律第百九号)など既存の法律においても、「差別」という言葉の定義はありません。したがって、法律上「差別」という言葉の定義がないことが問題だとは思いませんし、両法律の例を見てもこれらが社会の分断を促しているとも感じていません。

 ただし強いて言えば、障害者差別、部落差別ともに、政策課題としては長年の歴史と蓄積があるイシューであり、いずれも具体的にどのような行動が差別に当たるのかそれなりに関係者に共有されていることに対し、性自認や性的指向については政策課題としては比較的新しくまだ知識の共有も進んでいないとは言えるかと思います。この点も、私がまずは理解増進から行うべきではないかと思っている理由の一つです。

 なお、個人的には、誰かが何かを主張した際に、反対論や異論があることをもって「社会の分断を発生させた」という非難をするのは、どのような立場であれとても嫌いです。これは逆を言えば、単にもっともらしい言葉で同調圧力をかけていることに他ならないからです。分断を生むなとか無くせとかいうよりも、それぞれの立場の違いを認識しつつ協議と合意を目指せと指摘すべきだと常に思います。

●結語

 柳沢様のコメントの結語として「ついては性自認を認めることとそうした人に対する差別条項を入れることは絶対にしないようお願い致します」とされています。まず、「性自認を認めること」については、柳沢様の「性同一性」と「性自認」との言葉の使い分けが私に理解できていない面もあるのだろうとは思うのですが、少なくとも前述の通り判例では「性自認の通り生きること」は既に法律上保護された利益として既に認められており、あまり議論の余地はないものと思います。

 「そうした人に対する差別条項を入れること」というのも少しアヤのある日本語ですが、文脈的にいわゆるLGBT理解増進法案において「差別は許されないという文言を入れること」と理解することとします。現在、第三条において「性的指向及び性自認を理由とする差別は許されないものであるとの認識の下に」とあり、自民党内の議論において「差別はあってはならない」と修正すべきというご意見がありました。個人的にはどちらにしても単に同じ意味の認識を示しているだけで、法律としての具体的な効力がないことにも違いはないため正直どっちでもよく、なんなら日本国憲法第十四条にあわせて「差別されない」としても構わないとも思っています。いずれにせよ理解増進という法案の趣旨にも直接影響しません。この言葉は党内外の議論の中で法案に追加された文言であり、私としては、合意形成さえされれば、いずれの選択肢もあり得ると思っています。

 そして先にも記した通り、現に起こっている訴訟において「差別にあたるかどうか」が争点になっていないことから鑑みるに、LGBT理解増進法案に「差別は許されないものであるとの認識」等と記してあってもなくても、あるいは差別の定義が記されていなくても、法律の記すところを適切にご理解いただければ実際に起こり得る紛争に影響はなく、したがって、今議論されているいずれの表現であれそのような認識を記すことにご懸念のような問題はないものと考えます。

 さて、随分と長い文章になりましたが、柳沢様のコメントにお応えする形で、いわゆるLGBT理解増進法案、特に性自認に関する議論に関して、私の思うところを申し述べました。法学を専門に学んだ弁護士なわけでもありませんので、おかしなところもあるかも知れません。その際にはご教示賜れば幸いです。また、きっかけをいただいた柳沢様に、重ねて深く感謝を申し上げます。

 以前、稲田朋美政務調査会長の下、性的指向・性自認に関する特命委員会が設けられた際、古屋圭司委員長は「そもそも保守とは、多様性を包含するものなのだ」とおっしゃっていました。私はこの言葉を頼りに、自民党の中で議論を続けています。

 どうかこのブログ記事が、ご覧いただいた方のお役に立ち、相互の理解と尊重に繋がりますように。

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2023年2月13日 (月)

同じ性別同士の者の結婚を可能とすると、どう社会が変わるか(補論)

 先日、ブログ「同じ性別同士の者の結婚を可能とすると、どう社会が変わるか」を記したところ、いくつかコメント等のリアクションをいただきました。ご覧いただき、誠にありがとうございました。また、週末を過ごして思うところもいくつかありました。そうした諸点をさらに議論の参考にしていただきたく、バラバラといくつか補いたいと思います。

日本の文化との折り合い

 先のブログでは、主に法制度上の議論のみ行い、ただし信教の自由に関しては留保をするというスタンスで記しました。その後、我が母校慶應義塾が主催する小泉信三第47回小論文コンテスト(2022年実施)で小泉信三賞を受賞した作品「『全性愛論』~自由恋愛と異性愛規範を見つめ直して」をご教示いただき、読んで改めて頭の中をかき回され(読み物に歯ごたえを求める諸兄姉には、ぜひご一読をお勧めします)、作者の強烈な意志と、発想の囚われなさと、しかし理想の実現を100年先というかなり遠い先の話と感じさせてしまうむごさとを抱えながら世の中を見てみると、いろいろなものが目につくようになりました。

 わかりやすいのが、3月3日の桃の節句に飾るひな人形とか、5月5日の端午の節句に掲げる鯉のぼり。お内裏様とお雛様は二人並んですまし顔ですし、大きな真鯉はお父さんで小さな緋鯉はこどもたちなのです。お母さんはどこに行ったのか?そもそも吹き流しの意味は?など気になりますし、そもそも端午の節句、すなわち休日法における「こどもの日」が事実上ほぼ男子の日であることも気になります。いずれにせよ、こうした「夫婦」「お父さん・お母さん・こども」といった家族観が当然とされる文化背景の中で私たちは育ってきたということが、改めて自覚されるわけです。法制度とは直接関係するわけではありませんが、「平等」「差別」といった概念をこの世界に普遍的に持ち込まれた際には、場合によっては排撃の対象とされるのかもしれませんし、しかし排撃したところで過去を書き換えるわけにもいきませんし、相当の摩擦も免れないでしょう。

 ただ、昔は、鯉のぼりは真鯉一匹だったともされているようです(参考:東京新聞「赤い鯉はお母さん?子供たち? 童謡『こいのぼり』の不思議。」2022年3月15日)。若干話はズレますが、今や全国的に展開される節分の恵方巻の習慣も、私が子どもの頃は一部地域のものだったはずです(私が初めて知ったのは、中学生頃に読んだ小林信彦の小説『唐獅子源氏物語』だったような気がします)。そういう意味では、伝統的日本文化とされているものには、実は可塑性がかなりあるようにも感じますので、お互い硬直的に考えすぎず上手に折り合いをつけていく道を考えていく必要があるのではないかと考えます。国技大相撲が外国出身者を上手に受け容れつつ、なお存続しているように。あるいは源氏物語が、現在的視点で見るとかなりヒドイ話であるにも関わらず、古典として尊ばれさまざまな二次創作の源になり続けているように。

 なお、キリスト教やイスラム教が厳格に同性愛を罪としていたことと比較して、日本においては比較的同性愛には寛容であったということも言われます。ただ概ね、武将とその小姓の関係といった形であり、日本における歴史・古典世界に同性「婚」という考え方があったのか、あまり私の知るところでは見覚えがない気がします。ここはより博識な方の登場を待ちたいと思います。

制度的な議論についての補遺

 いくつか、制度についてもリアクションをいただきました。一つは、配偶者控除という税制について。私は先のブログでは、民法等改正により同性同士の婚姻を認めたとすると、当然に税制等もついてくるものと考えている旨記しました。これは、同性間の婚姻と異性間の婚姻について合理的に差を設ける理由が考えられないからです。ただし現在、少子化対策の観点から、子がいる家庭についてより税制的な支援も厚くすべきという議論があります。同性婚か異性婚かを問わず、そうした観点からの検討は行っても良いかもしれないとは思っています。また、遺族年金に男女で受給資格に差があることも、この際解消するべきでしょう。

 子の嫡出に関して「生殖補助医療の提供等及びこれにより出生した子の親子関係に関する民法の特例に関する法律(令和2年法律第76号)」の第十条に関するコメントをいただきました。この条文は、夫の同意を得て妻が他人の精子等を用いた生殖補助医療により懐胎した子については、夫、子、妻は嫡出の否認ができないことを規定します。妻甲妻乙間で、同意により他人の精子等を用いて妊娠した場合も、この規定に準じることとするのは合理的だと考えます。

「性的指向・性自認の多様性に関する理解の増進に関する法律案」について

 先のブログから、同性同士の婚姻を法律で認めることについて議論しています。一方で今国会では「性的指向・性自認の多様性に関する理解の増進に関する法律案」が成立するかどうかといった点がメディアで焦点とされています。これについては「自民党における性的指向・性自認の多様性に関する議論の経緯と法案の内容について」の後半で思うところを記していますので、ご覧いただければ幸いです。同性婚の議論を行うにしても、性的指向とはどういう概念か、共通理解を作らなければ議論にもなりません。そういう意味で、まずは第一歩を進むための法律となると考えますので、ぜひこの機運を活かして各議員がそれぞれしっかりと自分の頭で考えた意見を持ち、その中で成立に向かって合意形成が図られることを期待しています。

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2023年2月10日 (金)

同じ性別同士の者の結婚を可能とすると、どう社会が変わるか

はじめに

 荒井勝喜前総理秘書官の発言や、岸田総理の衆議院予算委員会における発言が契機となり、LGBTに関する議論がにわかに注目を集めています。以前、自民党の性的指向・性自認に関する特命委員会事務局長を務め、このテーマに取り組んでいた経緯がある身として、やはりいろいろ感じるところはあります。特に、岸田総理は衆議院予算委員会において、同性婚について「社会が変わっていく問題」という表現を2月1日にされました。8日に総理はさらに質されて「ネガティブな意味ではない」と述べ「議論をすべき」と答弁されましたので、では、同じ性別同士の結婚を可能とすると、何がどう変わるのか、変えないといけないのか、私なりに議論してみたいと思います。

 なお私の過去の取り組みについては「自民党における性的指向・性自認の多様性に関する議論の経緯と法案の内容について」をご参照ください。この内容はおおむねご理解いただいているものとして、以下を記します。

まず荒井前総理秘書官発言について

 本題に入る前に、荒井勝喜前総理秘書官の発言について思うところを記します。報道によると、総理官邸で記者団に総理発言について問われ、「同性婚導入となると、社会のありようが変わってしまう。国を捨てる人、この国にはいたくないと言って反対する人は結構いる。隣に住んでいたら嫌だ。見るのも嫌だ」と発言したとされています(参考:2月7日付東京新聞記事)。

 「社会のありようが変わる」かどうかは後に議論します。また、国を捨てる人などがいるかどうかは確認のしようがありませんから、そういう意味では根拠のない発言ではないかと思いますが、もしかしたら荒井氏の知り合いでそのように発言する人がいたのかもしれません。ただ、「隣に住んでいたら嫌だ。見るのも嫌だ」というくだりは、ご本人の主観を述べたものと思われます。そもそも私は、社会人の常識として、他人の不随意な特徴や属性に対して第三者に不快感を示すことは、その相手を侮辱し、卑しめ、尊厳を傷つけることになるので、極めて慎重であるべきだと考えます。本人としては「単なる自分の感想」を言っただけのつもりであっても、言われた相手は深く傷つき、無力感や自己否定感などに苛まれることになり得ます。「単なる感想」などという言い訳は許されません。特に、その特徴や属性を自ら受け入れることにも困難がある場合はなおさらです。髪型やその多少、体形、性別、障害の有無、疾病(特に感染症)罹患の有無、家族、学歴、出身国や出身地、職業、収入の多寡などについて、こうした表現を行うことは一般的に「差別」として扱われ、表現を控えるべきこととされています。そして性的指向および性自認についても、当然に同様に取り扱われるべきものです。法務省のパンフレットに書いてあるようなことを総理秘書官が全く理解していないことが露呈してしまったわけであり、更迭は当然です。

 なお、オフレコ発言が記事にされていますが、勤務時間中に総理大臣秘書官として総理官邸で記者相手に語られた内容だったわけであり、総理の意図を補足する趣旨で行われたことが明白ですから、やはり単なる個人的感想で済む状況ではないことも明らかであり、記事にされるのもやむを得ないことだと考えます。酒場で酒を飲んで語られても、眉を顰めるべき内容ですが。

性別が同じ者同士の婚姻についての法律的な議論

 本題に入ります。なお、以下では話を単純にするために、性自認の話は控え、夫・父=男性、妻・婦・母=女性という前提で議論します。もちろんトランスジェンダーなどの方の婚姻についても議論されるべきですが、とても応用問題になりますので、まずは、性別については男性または女性に区画されているケースを念頭に置くこととします。また、私なりに調べながら記していますが、弁護士でもありませんので、私の誤解や無理解があれば、ご教示いただければ幸いです。

 まず、異性間にのみ婚姻を認める根拠がどこにあるのかという課題について。歴史的に、異性間に婚姻を認める根拠は、子をなすことができることにあると思われます。ただ、では子をなさない二人の間には婚姻を認めることはできないと決めつけてよいかといえば、そうは言えないのではないかと私は思います。というのは、既に現時点でも、疾病や加齢によりその能力が失われていても、また本人たちの意志等の理由で子をなさない場合であっても、婚姻は認められるからです。また、宗教によっては、婚姻は異性間のみしか認めない場合も現在でもあります。本人たちの信教の自由は保護されるべきですが、憲法によって政教分離が定められている日本において、特定宗教の教えを根拠に法律を決めることはできません。そう考えると、同じ性別同士の者に婚姻を認めた場合にどのように社会が変わるのか、メリット・デメリットを検討し、社会が受け入れられるかどうかによってのみ判断されるべきものと考えます。

 日本国憲法では、憲法第二十四条において「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立する」と書いてあります。この規定について現在の日本政府は、双方の性別が同一である婚姻を「想定していない」という見解を維持しています(参考:衆議院逢坂誠二君提出日本国憲法下での同性婚に関する質問に対する答弁書、平成三十年五月十一日)。したがって、現時点では双方の性別が同一である婚姻は憲法違反であるともしていません。しかし民法や戸籍法は後述のように「夫婦」「夫・妻」などの表現を用いていますので、現在は「夫夫」や「婦婦」の婚姻届は受理できません。ですから、問題は、民法や戸籍法などの改正をするかどうかにかかっているということも可能です。ただそうはいってもやはり「両性」という表現は素直に「男性と女性」と解するのが常識的だとは思いますので、仮に同性同士の婚姻を法律で規定する場合には、あわせて憲法第二十四条を「両人の合意にのみ」などと明示的に改正する方がより望ましいと個人的には考えます。

 さて「婚姻とは法的にどのような効果を持つものなのか」をおさらいします。民法第二章第二節・第三節では、夫又は妻の氏を称すること(第七百五十条)、同居し、互いに協力し扶助しなければならないこと(第七百五十二条)、資産、収入その他一切の事情を考慮して、婚姻から生じる費用を分担すること(第七百六十条)、夫婦の一方が日常の家事に関して第三者と法律行為をしたときは、他の一方は、これによって生じた債務について、連帯してその責任を負うこと(第七百六十一条)が定められています。また不貞行為や悪意で遺棄されたときには離婚の訴えが提起できる(第七百七十条)ことが定められており、これらを行わないことも夫婦間の義務と考えられるべきです。

 夫夫間または婦婦間でも、両者の届出によりこうした効果を持たせる法改正をしたとして、特段の変化が第三者としての社会にあるかと言えば、個人的には、特に問題ないものと思うのですが、どうでしょうか。当然、民法等で婚姻を認めることとすると、例えば国民健康保険の第3号被保険者になれるといった、社会保障制度や税制上で配偶者に認められている権利はついてくることになるでしょう。また、第七百六十一条の連帯責任規定は当事者の方々には極めて重要で、おそらくこの条文が、例えば家族として手術の同意等ができる根拠となるものと思われます。こうした関係性を同性間で認めては、なぜいけないのでしょうか。

 子の取り扱いについて考えてみましょう。まず、妻が婚姻中に懐胎した子は、夫の子と推定されます(第七百七十二条)。夫夫間の婚姻の場合はあまり考える必要ありませんが、妻妻間の婚姻の場合は、懐胎はし得ます。仮に妻甲が懐胎したとして、そのまま妻乙の子と推定することとしてしまってよいのでしょうか。現実には第三者の精子提供その他の手段によって懐胎しているのでしょうが、妻乙の同意の上であればそれでも差し支えないかもしれません。同意できない場合は、第七百七十四条を読み替えて妻乙が嫡出否認をすることができることとすれば、法的には整理できます。

 その上でもう一つ整理が必要なことは、精子提供した者等は第七百七十九条に基づく認知をすることができるかどうか、かも知れません。現時点では「嫡出でない子は、その父又は母がこれを認知することができる」とされていますので、妻甲妻乙の嫡出とされた子について、その父は認知できないこととなります。これは、子や精子提供者の権利を保護する観点から、異論があるかもしれませんね。

 なお、実質的な議論を先に述べましたが、仮に同性の者同士の婚姻を可能にする法改正をすることを想定すると、別の課題もあります。というのは、既に記してきたように、民法も戸籍法も「夫婦」「父・母」「夫・妻」という表現がなされているので、例えば「夫婦(夫夫の場合および婦婦の場合も含む)」みたいな読み替えまたは書き換えをするか、全面的に「配偶者甲・配偶者乙」あるいは「親甲・親乙」といった性別に依存しない表現に改めてしまうのか、どう具体的に法律の表現を修正するかという技術的な課題は、あります。もしかしたら、これを決める方が難しいかもしれません。また仮に前記のように性別に依存しない表現をするものとすると、その延長線上には「配偶者丙」といった3人目まで観念できてしまうという副作用が発生します。性別依存の表現は、2人だけという婚姻の「人数」を確定するという効果もあるのです。しかしさすがに3人以上の婚姻は議論の対象とするべきではないと考えます。そこを明示的に制限する意味では、憲法第二十四条を「両人の合意」と改正する必要が、より高まるといえるでしょう。

 いずれにしても、こうしたことを突き詰めていくことが、立法府にあるものとして「同性婚について議論をすること」であると私は考えるのですが、いかがでしょうか?

社会はどう変わるのか

 既に、同性同士で共同生活をしていたりする人は、現実に存在します。これは法律上同性婚を認めようが認めまいが事実としておられます。もしかしたら、法律で同性同士の婚姻を認めることにより、共同生活を選択する方々が増えるかもしれませんが、別段その方々のもともとの性的指向が変化したわけではなく、一人暮らし同士が二人暮らしになるだけです。パートナーシップ制度を導入した自治体においても、いま私が耳にしている範囲では登録したカップルの数は限定的ですし、極端に同性愛の方の人口が増えたという話は耳にしません。そういう意味で、社会保障制度等の財政的な面も含め、マクロでは社会にさしたる影響があるとは思いません。一方、当事者の方々からすると、二人の紐帯が社会から認められることとなり法的保護も受けられるようになるので、喜ばしいことでしょう。そういう意味では、差し引きしても、社会は良い方向に変化するかもしれません。

 法律や制度以外に、社会において何が変わるでしょうか。知人の結婚式に招待されて行ったら、二人ともウエディングドレスを着ていたり、二人とも紋付袴を着ていたりするかもしれません。別段何か困るとは思いません。知人が生涯のパートナーと出会えた幸福を素直に祝ってあげればよいのではないかと思います。子には父と母が必要だ!それが家庭のあり方だ!という向きもおられるかもしれませんが、世の中、まだ異性婚しか認めていないのに、既にシングルマザーやシングルファザーも、再婚やそれ以上の回数の結婚をする方も、決して少なくない現実をどう考えるのでしょうか。或いは、私の子たちには、諸般の経緯により「父」「母」「養母」と親が3人戸籍上に存在しますが、彼らなりにそれぞれに上手に付き合ってくれています。この家族を誰にも否定される謂われは、ありません。

 先にも記しましたが、宗教上異性のみが婚姻対象という方はおられると思います。その方に無理に同性同士の結婚をさせるという話ではありません。とはいえ、結婚式を挙げる宗教施設が宗旨上同性婚カップルを受け容れられないというケースはあるかもしれません。ちょっと議論が要るかもしれませんが、例えば学校において男子校や女子校の存在が「差別」とはされないように、信教の自由も尊重されるべきですので、個々の施設の受け入れ可否は個々の施設の判断に拠るものとしても、特に差し支えはないのではないかと思います。

 ただ一つだけ注意を要するのは、例えば人前で同性同士が手を繋いで歩いていたりするのが単に「嫌だ」とか「気持ち悪い」とか「見たくない」といった理由は、先の荒井勝喜前秘書官のロジックと全く同じであり、社会的には、理由にしてはならないと考えます。もちろん、品位を保持すべき場面でいちゃついていたら、当然に同性間でも異性間でも問題になります。

結語

 個人的には、同性婚を仮に法律上認めることとしても、当事者の方々には法的に関係性が保護されることとなりかつ社会的に認められるという大きなメリットがある一方で、それ以外の方も含めた社会全体がびっくりするほど変わったり、多くの人に影響が生じたりは、しないと思われます。そう考えると、法律表現上の技術的課題をクリアさえできれば、反対する理由は、特に見あたりません。ですから現時点で、同じ性別同士の婚姻を法律で認めることについて個人としての賛否を問われれば、賛成です。そして岸田総理は「議論をすべき」とおっしゃっているのですから、今後さらにこのような具体的な議論が国会や自民党で深められることを、期待しています。

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2021年6月 1日 (火)

自民党における性的指向・性自認の多様性に関する議論の経緯と法案の内容について

 さる5月28日の自由民主党総務会において、「性的指向・性自認の多様性に関する国民の理解の増進に関する法律案」が議題とされ、その時点で想定される国会日程上成立が困難であるとの森山裕国会対策委員長・末松信介参議院国会対策委員長の見通しを踏まえ、取り扱いは党三役(二階俊博幹事長、下村博文政務調査会長、佐藤勉総務会長)の協議に委ねられることとなりました。

 筆者は、自民党において性的指向・性自認に関する特命委員会が設置された平成28年から、政務官・副大臣を務めていた時期を除いて事務局長を務め、一貫して議論に携わってきました。その間さまざまな議論と経緯を経てここに至っていますが、ここにきて残念ながら必ずしも正確とは言い難い認識に基づく意見や記事も見かけるようになりました。さまざまな視点に立った議論が存分に交わされるのはわが党の良い点ではありますが、願わくは、過去に積み重ねてきた議論を十分に踏まえたものであってほしいものと思います。

 そこでこの機会にあらためて、自民党における性的指向・性自認の問題に関する議論の経緯を整理しておきます。

●特命委員会の設置

 特命委員会は平成28年2月に設置されました。当時の稲田朋美政務調査会長の指示により、古屋圭司衆議院議員が委員長となり、私が事務局長を拝命してスタートしました。なお稲田朋美議員は委員会設置当初から、いわゆるLGBTの当事者の方々が直面する問題を人権問題として捉えており、委員長に就任した現時点に至るまでその姿勢は一貫しています。

 当時は党内においても今よりもなお一層この問題に関する認識の薄さがありましたが、当事者や有識者の方々からのヒアリングや、政府や企業の取り組み状況のヒアリングなどを重ね、理解と議論を深めました。その成果として「性的指向・性自認の多様なあり方を受容する社会を目指すためのわが党の基本的な考え方」等をとりまとめ、同年5月24日に総務会で了承を得ました。その中では、

  1. 性的指向・性自認に関する広く正しい理解の増進を目的に、今後、議員立法の制定を目指す
  2. 委員会で取りまとめた「政府への要望」に掲げる措置を速やかに講じることを政府に要望する

 という二つの目標が「目指す方向性」として記され、これが自民党として正式決定された方針となりました。

 また、性的指向・性自認に関する広く正しい理解の増進を目指すとしても、何が「広く正しい理解」なのかについて、自民党としての案を持っている必要があると考え、この問題に関するQ&Aを編集し、公表することとしました(下記)。なおその頃、橋本自身もこの議論に関する個人的な整理を自分のブログに「自民党性的指向・性自認に関する特命委員会「議論のとりまとめ」等について」として記していますので、あわせて参考にしていただければよいかと思います。

●性的指向・性同一性(性自認)に関するQ&Aの編纂

 特命員会では、上記「わが党の基本的な考え方」の決定後、ただちに「性的指向・性同一性(性自認)に関するQ&A」の編集作業にとりかかり、6月に公表しました。この平成28年6月公表版は、24問のQ&Aおよび付録「困った時の相談先一覧」から構成される34ページの文書でした。

 この当時から、Gender Identity を意味する日本語として「性自認」とするか「性同一性」とするかはかなり迷いました。既に「性自認」という言葉の方が、政府や一般での使用例は多かったと思われますが、「性同一性」という言葉は「性同一性障害者の性別の取り扱いの特例に関する法律」として既に法律用語になっている(もっとも、実は「性同一性障害者」という言葉しか法律上の定義はされていない)ため、その点との整合を図る意味で、最終的には「性同一性」という表記となった経緯がありました。しかしこのQ&Aのタイトルでわかるように、両方の言葉が同義で存在しているものと認識されており、内容にも「両者の意味は同じであり、今後も『性自認』を用いることにも差し支えはないものと考えます」と記されています。

 このQ&Aは、令和元年6月に内容を更新しました。現在の自由民主党のWebサイトに掲載されているものは、この時点の版です。この版では「実際にはあまり厳密な区別なく『性自認』『性同一性』が使用されている状況です」と但し書きをつけつつ、「『性同一性』は、ある性別に対する社会的かつ持続的なまとまりの感覚に関することを意味するため、自分の性別の認識という意味である『性自認(gender self-recognition)』とはニュアンスがやや異なります」と、二つの言葉のニュアンスの差に留意しました。こうした議論の積み重ねが、今回の法案における言葉の定義に繋がっています。

 令和元年度版Q&Aは、28問のQ&Aおよび付録「困った時の相談窓口一覧」から構成される41ページの文書です。今回の法案をめぐる議論を踏まえ、今後さらに内容の更新を図る必要があるものと考えています。

●政府への要望申し入れとフォローアップ

 先述の文書「性的指向・性自認の多様なあり方を受容する社会を目指すためのわが党の基本的な考え方」には、別紙として「性的指向・性自認の多様なあり方を受容する社会を目指すための政府への要望」が添付されています。これは平成28年の特命委員会における議論等をもとに、現行の法制度の範囲において取り組むべきさまざまな施策について、「教育・研究」「雇用・労働環境」など7分野33項目にわたって抽出したものであり、5月の総務会決定を経て政府に申し入れを行いました。この活動は、自民党が与党である利点を生かした独自のものであり、現実的に政府のさまざまな取り組みを促す効果があったものと自負しています。

 特命委員会では、この申し入れに基づき実際に政府がどのようにこの問題に取り組んだのかフォローアップを行っており、令和元年には先ほどの令和元年版Q&Aの付録として「『性的指向・性自認の多様なあり方を受容する社会を目指すための政府への要望』(平成28年5月)に関する政府の対応状況」として整理しました(自民党「性的指向・性同一性(性自認)に関するQ&A」ページに【性的指向・性同一性(性自認)に関するQ&A(令和元年版)付録】として掲載されています)。

 平成28年の最初の申し入れから既に5年を経過しており、フォローアップの継続に加え、そろそろ要望の内容にもブラッシュアップが必要なようにも思われます。今後の宿題と考えています。

●「性的指向及び性自認の多様性に関する国民の理解の増進に関する法律案」の検討経緯

 自民党の方針として、性的指向及び性自認の多様性に関する国民の理解の増進に関する法律案の成立を目指す旨は平成28年5月に総務会決定されましたが、その進捗は難航しました。実はその直後に現行案と概ね同旨の法案要綱まで作成し、内閣部会と特命委員会の合同会議に諮りましたが、さまざまな意見があり了承を得るに至りませんでした。

 その後も特命委員会の役員が中心となって検討を続けましたが、政府においてどの省が主管するか決着がつかず、数年間の足踏みを余儀なくされました。法務省、内閣府、文部科学省などと粘り強く交渉を続けましたが、どの省も「協力はするが自分が主管する政策ではない」といういわゆる消極的権限争いを展開し、いたずらに貴重な時間を浪費しました。政府内ではしばしば見かける光景ではありますし、理由のないことでもないことは理解しますが、現実にさまざまな困難に日々直面している当事者の方々のことを全く眼中に置かず、とにかく自省の仕事を増やさないことに躍起になる各省の活動は、正直見苦しいものでした。当然これは特命委員会に力が無かった結果でもあるため、深く反省しています。

 風向きが変わったのは、菅義偉政権が誕生してからです。令和3年3月に稲田朋美特命委員長や谷合正明参議院議員らとともに加藤勝信官房長官に面会し主管省庁について調整を依頼したところ、後日「法案成立後の担当大臣は坂本哲志内閣府特命担当大臣とする」旨の返答をいただきました。それも踏まえ、橋本が5月10日に衆議院予算委員会でこの問題に関する政府の憲法解釈を質した際には坂本大臣が答弁を行い、公知の事実となりました。

 ここから法案の検討は一気に加速します。4月8日の特命委員会会合において、稲田委員長から議員立法の状況について報告を行い、4月26日には内閣第一部会と特命委員会との合同部会を開き、「性的指向及び性同一性の多様性に関する国民の理解の増進に関する法律案(仮称)要綱」を示して野党との協議に入る了承を得ます。ここで舞台は超党派のLGBTに関する課題を考える議員連盟(馳浩会長)に場所を移し、稲田朋美議員と西村智奈美議員に与野党間の調整を一任。両議員による精力的な交渉を経て、5月14日に取りまとめられた案が超党派の法案として了承され、各党の党内手続きに付されることとなりました。そして5月20日および24日の内閣第一部会・特命委員会合同会議で法案審査が行われ、国会で質疑を行うことを国対委員長や議運委員長に要望することを条件として了解を得ました。そして5月27日に政調審議会を経て28日の総務会に諮られ、冒頭記述の結論となりました。

●法案の内容について

 自民党の内閣第一部会・特命委員会合同部会で了解され総務会に諮られた法案の概要および法案をこちらに掲載しておきます。法案は条文14条附則3条の短いものであり、さっと目を通していただけるシンプルな内容です。

【性的指向および性自認の多様性に関する国民の理解の増進に関する法律案】(概要・法案)

 内容は、性的指向や性自認の多様性について、未だ国民の理解が十分に進んでいないことが、いじめや差別などの原因となりやすい現実があることを踏まえ、性的指向や性自認の多様性に関する国民の理解の増進を図ろうとするものです。法案の目的や基本理念、言葉の定義を定めた上で、国や地方公共団体、事業主、学校等の役割や努力を記した上で、毎年1回政府による施策の実施状況の公表(上記の要望フォローアップのようなものを想定)すること、政府が基本計画を策定すること、調査研究や知識の着実な普及、相談体制の整備、民間団体等の活動の促進を行うべきことを定め、また各省横断的な連絡会議を設けることを定めています。

 この法案にはいくつかのポイントがあります。

 ひとつは、この法案で理解の増進をする内容は「性的指向・性自認の多様性」で一貫していることです。そもそも性別という概念は、単に男性か女性かを二分するだけのものではなく、戸籍上の性別、身体的特徴による性別、性的指向、性自認、場合によっては服装など外見上の性別など、複数の要素により構成されるものです。その中で、特に誤解が少なくない「性的指向」および「性自認」の二つの要素について、それが多様である(単に「男性」か「女性」のみに二分されるものではなく、グラデーション的であったり他のカテゴリがあったり不明あるいは謎であるとする人もいる)という「知識」を普及させよう、というのが本法案の趣旨です。仮にこの法案が成立したら、当事者の方々の「意見」や「主張」を全て正しいものと理解しなければならないのではないか、などと受け止めておられる方がいるとすれば、これは全くの誤りです。一方で、この法案は当事者の困難の解消に繋がらないのではないかという懸念も聞かれますが、正しい知識の普及はいたずらな偏見を防ぎ、当事者の方々もそうでない方々も共に暮らすことのできる社会の実現に、必ず結びつくものと考えます。

 また、「性自認」という言葉の定義を行ったことも、ポイントの一つといえるでしょう。4月の法案要綱時点では、先述の議論を踏まえてGender Identityを表現する日本語として「性同一性」という言葉を遣っていましたが、与野党での協議を経て「性自認」という言葉をつかうこととなりました。これは他党からの要請があった経緯はありますが、同時に既に政府を含め幅広く「性自認」という言葉が一般的につかわれている現状を踏まえた判断でもあります。一方で、「性自認」という言葉そのものが独り歩きして、Gender Identityは本人が自覚的にコントロールできるもの、という誤解を招くことも懸念されました。そこで、定義について「自己の属する性別についての認識に関する性同一性の有無又は程度に係る意識」と記しました。ここでいう性同一性は、「自分は男性である」「自分は女性である」「自分はXである」「自分は男性か女性か問うている」といったアイデンティティそれぞれを指します。アイデンティティですから基本的には一貫するものですが、人によっては思春期に揺らぐこともあると言われていますし、無い場合もあるし、程度や割合として認識される場合もあります。それを「有無または程度に係る意識」として表現しています。そうした状況をも包含する広い概念として、この法律において「性自認」という言葉を定義しました(わかりにくくて申し訳ないのですが、そもそもアイデンティティという言葉に対応する日本語が無いことを、どうにかして日本語にしようとしている努力の現れと思っていただければ、ありがたいです。ジェンダーアイデンティティと書ければ良いのですが、日本の法律は日本語で書かなければならないのです)。もとより、法律における言葉の定義はその法律内のみ効力を持つものであり、一般に広く効果を与えるものではありません。しかし参照される対象とはなり得るものであり、むしろ法律で定義することにより「性自認」という言葉を自由勝手に使用されることを防ぐことになるものと期待しています。

 与野党協議の中で第一条(目的)および第三条(基本理念)に、「すべての国民が、その性的指向又は性自認にかかわらず、等しく基本的人権を享有するかけがえのない個人として尊重されるものであるとの理念にのっとり、性的指向および性自認を理由とする差別は許されないものであるとの認識の下」という表現が追加されました。このことは、日本国憲法第十四条に「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」と記されていることを踏まえたものであり、実際の適用場面において具体的な法規範性を持つものではありません。憲法において「差別されない」と書いてある以上、差別はあってはならないし、許されてもならないことを確認したに過ぎません。なお、5月10日の衆議院予算委員会における橋本の質疑で、坂本大臣は「委員御指摘のとおり、憲法第十四条の趣旨に照らしましても、性的指向、性自認を理由といたします不当な差別や偏見は決してあってはならないというふうに認識をしております。政府といたしましては、このような認識の下、多様性が尊重され、そしてお互いの人権や尊厳を大切にし、生き生きとした人生を享受できる共生社会の実現に向けて、しっかりと取り組んでまいります。」と答弁しており(議事録)、この答弁内容とも整合的です。なお、「あってはならない」と「許されない」という表現については、令和2年11月13日衆議院法務委員会において上川陽子法務大臣が「新型コロナウイルス感染症に関連して、感染者あるいはそのご家族に対しまして、誤解や偏見に基づきましての差別は許されないことであると思っております。また、性的指向、性自認に関する理解の欠如に基づく偏見、差別についても、決してあってはならないと考えております」と並べて答弁しており(議事録)、また他にも用例があり、政府はこの二つの表現を意識して使い分けているわけではないものと考えています。また、「部落差別の解消の推進に関する法律」(平成二十八年法律第百九号)の第一条(目的)において、「部落差別は許されないものであるとの認識の下にこれを解消することが重要な課題であることに鑑み」という表現が既に存在することも、参照されるべきでしょう。なおいずれにせよ、目的や基本理念に立法の背景を詳しく記したとしても、法律の内容は依然「知識の普及」に過ぎず、差別解消を直接に図る規定が存在しないことには変化はありません。

●最後に

冒頭記したように、現時点において今国会での法案の成立の見通しが立っているわけではありません。とはいえ国会も生き物であり、明日には何が起こるかわからない世界でもあります。自民党でも総務会に議案がかかり続けている状態ですから、国会情勢が変化すれば即座に提出が可能です。性的指向・性自認に関する特命委員会としては、多くの方々のご協力をいただき、引き続き法案の成立に向けて努力を続けたいと考えています。引き続き、ご指導・ご鞭撻の程、よろしくお願い申し上げます。


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