年収の壁と最低賃金の議論のためのシミュレーションをしてみた
●はじめに
先の衆議院総選挙以降、いわゆる「年収の壁」の問題について議論が盛んになっています。地元でいろいろな方にお話をお伺いしていても、特に事業主の方から、人手不足の折から働き控えに繋がるので困っている、どうにかしてほしい、という切実なお話はしばしば伺います。ただ、所得税が発生する「103万の壁」や被用者保険が適用される「106万の壁」の話、さらには配偶者の話なのか大学生年代の扶養の話なのか、今後最低賃金が上がるとどうなるのかといったさまざまな要素が錯綜しているようにも思われ、丁寧に話を分解して理解を共有しながら議論をすることが必要と思っていました。
そうしたところ、議員在職中、ともに衆議院厚生労働委員の与党理事として汗をかいた盟友・伊佐進一前衆議院議員が、これらの問題について大変にわかりやすい解説動画をYouTubeにアップしておられるのを発見し、とてもわかりやすくてよくできていてすごいなと感心した次第です。ご興味の方には、ぜひご覧になることをお勧めします。
【お金のニュース】103万円の壁は存在しない!?手取りを増やすの核心に迫る!わかりやすく解説します!(前 衆議院議員 いさ進一 チャンネル)
ただ、解説は解説として、それで具体的に何がどうなって結果どうなるのよ、ということは計算してみないとよくわかりません。そこで私の方では具体的な例を挙げてシミュレーションしてみることにしました。その結果について、まずはこのブログで記します。
●本記事の要約
- 本人はパートで週20時間労働し、配偶者は月収28万円である夫婦二人世帯を想定し、岡山県倉敷市で働く場合と、東京都北区で働く場合でそれぞれの最低賃金が本人の時給となるものとして、世帯の収入、社会保険料、所得税、住民税を計算し、結果として世帯の手取りがどうなるかを試算した。
- 結果として、時給が高い北区の場合の方が収入は高くなるものの、社会保険料や税を差し引いた手取りには大きな差が生じないことがわかった。本人が所得税の課税対象となることよりも、社会保険の加入により社会保険料負担が生じる影響の方が大きかった。
- したがって、家計の手取り向上や労働者の働き控えについて検討するためには、所得税よりも、社会保険料負担(いわゆる「106万円の壁」)をどうするかについて、より丁寧に議論する必要があるのではないか。社会保険料控除の見直しなども考えられるのではないか。
●シミュレーションの想定
夫婦2人世帯を考えます。本人は、パートで週20時間働いており、賃金水準はその地域の最低賃金であるとします。配偶者は正社員で勤めており、月収28万円ただしボーナスなし、すなわち年収336万円とします。この際どちらが夫でどちらが妻かは関係ないので、適宜あてはめてください。いずれも40歳未満として介護保険料は考慮しません。また加入する健康保険は両人とも協会けんぽとします。雇用保険料も算入します。
時期は今年(令和6年度)とし、住んでいる場所が岡山県倉敷市の場合と、東京都北区の場合を比較します。この違いは最低賃金、社会保険料の料率、住民税均等割額などに影響します。特に、最低賃金の違い(岡山県:982円、東京都:1,163円)により本人の年収が倉敷市では約102万円、北区では約121万円となり、同時点における居住地域における差の検証であるとともに、結果として社会保険に加入しない場合と加入する場合の比較検証すなわち106万円の壁前後の検証としても読め、また将来的に岡山県の最低賃金を上げていった場合の検証としても読めるというのが、この設定のミソです。
計算として、世帯の年収、世帯の社会保険料額、世帯の所得税額、世帯の住民税額を出して、世帯の手取り(=世帯年収額-(世帯社会保険料額+世帯所得税額+世帯住民税額)を比較して検討してみます。なお住民税の課税ベースは前年度の収入ですが、前年度も同じ収入であったものとします。
計算は私自身が、各役場や協会けんぽのWebサイトなどを確認しながらエクセルで行いましたので、端数の処理が雑だったり、そもそも間違いがあったりする可能性はあります。やってみた感想として、これを仕事として日々計算されている税理士の先生方や役所の税担当の方々をとても尊敬したい気持ちになりました。繰り返していれば慣れるのでしょうが、しかしとても複雑な仕組みだなあとあらためてしみじみ思いました。
●結果
先に記したように、ご本人が同じ働き方をしていても、最低賃金の違いがあるため、倉敷市では配偶者の社会保険の扶養のままであり、一方北区では社会保険に加入することとなります。また倉敷市では103万円も切っているため、所得税は非課税となりますが、北区では所得税の課税対象となります。一方で住民税はいずれも課税対象です。こうしたことを前提に、結果は以下の表の通りとなりました(表をクリックすると拡大します)。
世帯の収入では、同じ働き方でも倉敷市と北区で19万円近い差がありました。これは純粋に時給の最低賃金額の差(181円)が、1年間になるとこれだけ違いが出るという結果です。一方で、「106万円の壁」を超えるため、北区では本人が社会保険に加入するため17万円超の社会保険料増加となります。所得税は、本人は北区のみ課税対象となりますが、課税所得額が6,000円弱、税率5%なので300円弱の課税額であり、年間で考えれば僅かです。すなわち「103万円の壁」は、壁というほどの影響は実はないということです。住民税所得割はいずれも課税対象でありほぼ差はありませんが、均等割額が倉敷市は1人55,000円なのに対し北区が1人50,000円と安いため、2人分で1万円分北区がおトクとなっています。あとは、東京都と岡山県の協会けんぽの料率の差が数百円単位で影響しています。
なお「103万円の壁」は国税である所得税についての議論ですが、実は家計に与える影響は、地方税である住民税の方がかなり大きいことも、この表において注目すべき点であろうと思われます。税負担と家計の関係を考える際には、所得税・住民税をともに考慮した議論が必要だということです。
●考察
この表から読み取ることができることはいくつかあります。まず、素直に「岡山県倉敷市在職と東京都北区在職の差」として捉えた場合、「東京の方が最低賃金が高いから稼げる!」という単純な話ではないということはいえるでしょう。今回の試算では、収入が増えた分はだいたいそのまま社会保険料で消えてしまい、手取りは年間約24,000円の差しかありません。この程度の差は、家賃水準の違いによりむしろ簡単にマイナスになります。また、今回は配偶者の勤め先の配偶者手当について考慮していませんが、おそらく120万円も稼ぐと配偶者手当が無くなるのでその分もマイナスになる可能性があります。そのことから、時給が高くなると、その時点の手取りのみを考えれば、「106万の壁」を意識して労働時間を減らすインセンティブも働きやすいとはいえると思います。ただし社会保険に加入することで、将来基礎年金に加え厚生年金による報酬比例部分が上乗せされたり、万一の際に医療保険から傷病手当金が支給されたりするなどのメリットがあります。たとえば、厚生年金については、年収120万円で20年加入すれば、毎月の保険料額(約9,000円)を上回る年金(約9,900円)が終身でもらえるなど、寿命が延びる中で、老後の安心材料は増えることも、考慮はされるべきでしょう。
また、「本人が年収102万円で留めた場合と120万円まで稼いだ場合との比較」として捉えれば、住民税均等割の差の影響を除外すると、ほとんど世帯手取りが同じになるという結論であるともいえます。年収105万円まで稼げば、同じ住所であればおそらくその方が120万円まで働くよりも社会保険料負担が無い分、現在の手取り的にはおトクとなります。これがまさに「106万円の壁」です。もちろん、社会保険に加入すれば上記のようなメリットが期待できますから、そこも含めた比較検討が必要であろうとは思いますが。
あるいは、将来的に最低賃金がさらに引上げされた場合のシミュレーションと考えることもできます。現在の岡山県の水準から東京都の水準に引き上げると、同じ働き方をしていても自動的に106万円を超えることになり、手取りが減る人が発生する状況が生じうるということです。現在厚生労働省で106万円の賃金要件を撤廃するという議論が行われています(「【速報】「106万円の壁」撤廃案を厚労省が正式提示…現在1:1の社会保険の負担割合を事業者負担大きく変える提案も」(FNNプライムオンライン))が、これは、最低賃金がある金額を超えて引き上がると、週20時間の要件を満たせば機械的に年収106万円を超えてしまうため、要件として存在させる意味がなくなるという理由もあるものと思っています。
ただ結局、手取りが減る場面があればそこを意識して働き方を調整する人は出るものとも思われます。この問題に対して、政府は「年収の壁・支援強化パッケージ」を定めて企業への助成等の対応を行ってはいますが、残念ながら周知が十分とはいえません。
なお、このシミュレーションではあまり関係してきませんが、130万円の壁というものもあります。社会保険非適用業種などにアルバイト等に出た際、130万円を超えると配偶者の扶養から外れ、国民年金・国民健康保険の保険料負担が発生するという壁です。この壁は、超えても純粋に保険料が増えるだけで給付面のメリットもなく、本当の意味での「壁」といえます。ただし、伊佐先生のYouTubeでも触れていましたが、社会保険非適用業種をなくしていこうという動きがありその方向での解決できれば望ましいことです。ただし課題は、事業主負担増に小規模事業者や非適用業種の事業者が耐えられるかどうかであり、それはそれで補助・助成等とのセットで議論する必要はあるでしょう。
●まとめ
国民民主党が主張している、所得税非課税額を103万円から178万円に引き上げるという議論は、生活の基本となる金額を控除する基礎控除48万円と給与所得者の必要経費の代替としての給与所得控除55万円を、物価上昇等を踏まえて引き上げるべきだという主張として捉えれば、それはそれで筋の通った議論だとは思います。そのことにより、多くの方々が手取り増にもなります。ただし、所得税のみならず概ね同じロジックで税額を決定している住民税にも議論を及ぼす必要がありますし、そのため所得税および住民税ともに主張通り満額実施すれば、国・地方合計して数兆円規模と想定される税収減をどう考えるのかという議論はあわせて検討する必要があります。さらに、住民税非課税世帯には社会保険料の軽減などさまざまな施策があり、この対象が拡大することによる追加の公費支出増や収入減も頭に置く必要があります。また、伊佐先生の動画で指摘されているように、所得が高い人ほど税率が高いため実控除額が増えるということをどう考えるか、という論点も生じます。また、本人が配偶者ではなく子の大学生の場合(特別扶養控除の対象から外れるかどうか)についても、伊佐先生のご指摘に深く賛同します。大学生を抱える世帯の手取り増のために、大学生の労働時間を増やすことで対応させるのは疑問です。
他方、働き控え対策として考えた場合は、所得税非課税限度額を上げても、そもそも納める所得税額が急に大きくなるわけではないため、あまり意味はありません。むしろ社会保険加入の要件である106万円の壁をどう乗り越えさせるかということの方が大きな問題であることが、今回のシミュレーションで明らかになったといえるでしょう。この検討では触れていませんが、社会保険加入により事業主も保険料を折半して負担することになりますので、事業主側の影響も考慮して対策を考える必要があります。
また、今回のシミュレーションを組み立てていて気づいたのですが、所得税および住民税には社会保険料控除という仕組みがありますが、低所得者の場合税率が低いため結果として影響額が小さく、あまり意味がありません。例えば一定の所得の方までは所得控除ではなく税額控除にする(マイナスになる場合は給付する)といった手段は、わかりやすく106万円の壁を乗り越える手立てになるのではないでしょうか。保険の問題を税で解決するのは筋違いという向きもあるかもしれませんが、将来のことを考えたら社会保険加入者を増やすことは間違いなく財政上もプラスになりますので、そこは目をつぶってもよいでしょう。保険料負担を事業主に寄せることが検討の対象となっているようですが、小規模事業者には負担増は受け入れ困難です。既に社会保険料控除がある以上、税で解決してしまう方がよいと思います。
私は、先の総選挙の際には、最低賃金増のみならず、下請け取引の監視強化や賃上げ税制の強化、公的報酬増による人件費増など、あらゆる手段を講じることにより賃上げを行う必要があると訴えました。手取り増の手段として基礎控除や給与所得控除の引き上げも検討に値するものとは思いますが、それですべてが解決するかのような主張には、今回のシミュレーションを踏まえても、やはり賛同できません。こうした丁寧な議論が、各党間での協議や国会にて行われることを期待します。
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コメント
橋本がく先生、目から鱗の精緻な検証に感動しました。論点が明確になり、より大きな観点の議論が必要なことがよく分かりました。このようにブログで検証を公開してくださり本当にありがとうございました。
大きく2つの所感をコメントさせていただきます。もし私の認識違いがありましたら申し訳ありません。
今後、実効的な議論が進むことを私も心から期待しています。
①103万円の壁よりも106万円の壁の方が問題、という指摘に大賛同です。同時に106万円の壁と130万円の壁の違いである、アルバイト・パートをする事業所規模の違い(51人以上か、50人以下か)を考えると(認識が違っていましたら申し訳ございません)、どちらの壁に直面する人の人数が多いのかも加味したいと感じました。日本の企業の約99.7%が中小企業だとすると、「130万円の壁」の対象となる当事者の方がもしかしたらかなり多い人数で、130万円の壁への対応の方が、「助かる!」と思う配偶者の当事者人数が、多いのではないか…と感じました。(この実人数は、所得の捕捉という意味で、国税庁(財務省)しか把握していないのかもしれませんが…)
②106万円の壁を乗り越えるために、所得控除ではなく税額控除にする、つまり社会保険の問題に税で手当てする、というのも卓見だと思いました。ただ日本の場合、税は財務省、社会保険は厚労省と縦割りで、それぞれ付加の哲学やタイミングが異なり両省庁の連携がうまくいかない可能性があると思うと(認識が違っていたら申し訳ありません)、政治のリーダーシップで、一体的なおおきな議論を期待したいです。
投稿: 伊藤聡 | 2024年11月21日 (木) 17時15分