LGBT理解増進法案と銭湯について
先日、私のブログに「同じ性別同士の者の結婚を可能とすると、どう社会が変わるか」、「同じ性別同士の者の結婚を可能とすると、どう社会が変わるか(補論)」を記しました。その記事に対して、柳沢俊介様からコメントをいただきました。ブログをご覧いただき、コメントを頂きましたことに篤く感謝申しあげます。誠にありがとうございました。
私はブログにせよFacebookにせよ、あまり返信などに対して反応できていないことが多いのですが、今回は議論への呼びかけに対してさらに議論を深めうるコメントをいただいたものと受け止めておりますので、特例的に、柳沢様のコメントを引用する形で、私の考えを記したいと思います。なお、ブログやFacebookなどネットでの発信や返信はあくまでも私個人の任意によるものであり、今後もこの議論を続けるかどうかも含め、その対応に何の義務を負うものではないことは申し添えます。
●柳沢様のコメント
柳沢様のコメントは既にコメント欄に表示されていますが、読まれる方の便宜のため改めて全文を引用いたします。
平素よりお世話になっております。
記事を拝読致しました。同性婚につきましてはまず憲法24条の改正が大前提だと考えておりますが、その前提の下でしっかり議論を重ねた上での事であれば良いと思います。
一方、性自認の話についてですが、橋本先生は性自認と性同一性障害を同じカテゴリで扱っておられますが、それは間違いと考えます。両者は分けて考えるべきです。
そして今通常国会でLGBT理解促進法の成立を目指していると聞き及んでおります。その法案では性自認も含めた上で、そうした方々への差別は許されないという文言を入れようとされていますが、これについては断固反対です。
理由はマジョリティである一般の女性が非常に不利益を被るからです。例えば「自分は身体は男だが心は女だ」とする人が女湯に入る事を希望し、差別条項があるために銭湯が拒めないなら被害にあうのは女性です。これを導入した米国や英国では混乱が起きているし、日本でも自分が女だと主張する男が女性を襲う事件も起きています。そのような事件が法律制定により更に増加する事を考慮すると、とても賛同できません。
更に理念法とはいえ「差別」という言葉の定義を全くしていないのも問題です。要らない分断を発生させる可能性が高いです。
ついては性自認を認める事とそうした人に対する差別条項を入れる事は絶対にしないようお願い致します。
●性自認と性同一性について
まず、「同性婚につきましてはまず憲法24条の改正が大前提だと考えておりますが、その前提の下でしっかり議論を重ねた上での事であれば良いと思います。」と記していただきました。私は以前記した通り、憲法第二十四条の改正が必要とまでは思わないものの、改正された方が望ましいという立場ですが、議論を重ねて進めることにはご賛同いただきました。改正が必要とする考え方も、それはそれであり得るとも思います。
次に「性自認の話についてですが、橋本先生は性自認と性同一性障害を同じカテゴリで扱っておられますが、それは間違いと考えます。両者は分けて考えるべきです。」とのことです。私は、Gender Identityの日本語訳として「性自認」または「性同一性」の二通りあるものと理解しています。ただ現時点でまだ明確な概念ではなく、それぞれに揺らぎがあるものであるとも受け止めています。もし私の理解が誤りであるということであれば、その根拠や用例をご教示いただければ幸いです。勉強いたします。
なおお示しの「性同一性障害」は、1990年にWHOが定めた疾病の分類であるICD-10にて定義されていた病名であり、Gender Identityと同義語でないことは言うまでもありません。またその根拠となったICD-10は既にICD-11に改定され、分類が変更されています。これをどのように日本において受け止めるかは現在議論中ですが、「性同一性障害」という概念の見直しも検討されるべきかもしれません。少なくとも、確立された当然の前提としては議論されない方がよいかとは思います。
●LGBT理解増進法の取り扱いについて
続いて「そして今通常国会でLGBT理解促進法の成立を目指していると聞き及んでおります。その法案では性自認も含めた上で、そうした方々への差別は許されないという文言を入れようとされていますが、これについては断固反対です。」と記しておられます。ここで記されているものが、「自民党における性的指向・性自認の多様性に関する議論の経緯と法案の内容について」で記した「性的指向・性自認に関する国民の理解の増進に関する法律案」(しばしば「LGBT理解増進法案」と略称されます)であるとするならば、まずこれに対して私個人は、今国会での成立を目指す主体でありません。自由民主党は本法案の今国会での成立を目指していると報道されていますが、自民党における政策の責任者は萩生田光一政務調査会長です。したがって、私が同法案の成立を目指している責任者であると認識されているのであれば、その認識は訂正していただければ幸いです。ただし同法案について賛否を問われれば、私は賛成します。
●「一般の女性が不利益を被る」とのご意見について
柳沢様は法案への反対の理由として「理由はマジョリティである一般の女性が非常に不利益を被るからです。例えば「自分は身体は男だが心は女だ」とする人が女湯に入る事を希望し、差別条項があるために銭湯が拒めないなら被害にあうのは女性です。」とご指摘されています。この点について私の思うところを記します。
まず銭湯の管理者には、当然にその場における正当な管理権があります。それに基づいて男湯と女湯が区分されているのです。そこに外見上男性の人が「性自認は女性だ」と主張して女湯に入ることを管理人に希望して、管理人が外見を理由にこれを拒否したとします。これはただの管理権の行使に過ぎません。現行の法制度下で、それでも無理やり侵入すれば、建造物侵入罪(刑法第百三十条)にあたり得ます。また管理人が退去を求めても、その判断を不服として言い募りその場を退去しなければ、不退去罪(同条)を構成し得ます。管理人さんは速やかに110番通報していただければ結構です。そこでその人が脅迫したり暴行したりすれば、さらに罪が重なるのみです。あとはお巡りさんに任せていただくということになります。もし念を入れるならば、普段から「他のお客様に快適に利用いただくために、管理人の判断により入浴をお断りすることがあります。ご承知おきください。」などと注意書きを掲示しておくとよいでしょう。実際に多くの銭湯では、刺青のある方についての注意書きなどが掲示されています。
さてLGBT理解増進法案には、お目通しいただければおわかりのように、公衆浴場等の管理者の管理権に影響を与える条文は存在しません。したがって、仮にLGBT理解増進法が成立してその上で上記のトラブルがあったとしても、同様の対応をしていただければ「女性が被害にあう」ということは起きず、ただの杞憂です。
法律によって管理権を制限している例はあります。例えば旅館業法では第五条において限定的な理由以外では「宿泊を拒んではならない」と明示しています。したがって、旅館等の管理者は、いくつかの場合を除き原則的には宿泊拒否ができません。しかし公衆浴場法には、入浴拒否を禁止する規定はありません。当然にLGBT理解増進法案にも同様の規定は存在しないのです。したがって、その場の管理者の判断により利用を拒否する形での管理権の行使は可能であると解することが妥当です。
トランスジェンダーの方と一概に言っても、実はさまざまな方がおられます。性別適合手術を受けた方であれば、全裸になった際の外見上も性自認通りの外見です。しかし事情があって性別適合手術が受けられなかったり、そもそも内心のみにとどまっていてカミングアウトされていない方の場合は、外見上は性自認と異なるということになります。そして現時点では一般的に、銭湯やシャワールームなど男女が区分けされる場面において、外見が性器まで含めて異性と同様の方が突然入ってこられると、不特定多数の利用者がおられれば、他の人がその方を見て驚いたり困惑したりしてしまっても不思議ではないのではないかと考えます。まさに全裸なので、その方がトランスジェンダーの方であることが、見ただけでは認識できないからです。これは、女性用の風呂場であろうとも男性用の風呂場であろうともさして事情は変わらないものと思います。わざわざ言いふらして歩くわけにもいきません。その方の性自認の在り様も、プライバシーに含まれると思いますので。
そのような状況下において、そもそも、トランスジェンダーの方で、銭湯において無理矢理にでも性自認通りの性別に入浴をしたいとまで考えている方は、私の知る限りでは、おられません。管理人の判断に従わない人に対しては、毅然と対応していただいて構わないと考えます。一方で、もちろん、性自認通りの入浴を楽しみたいと希望しておられる当事者の方はおられると思います。例えばそういう方も念頭に、皆が水着やタオルを巻いた入浴をする機会を設けるといった取り組みは、任意の取組としてあってもよいことでしょう。できれば、皆が快適に入浴を楽しめる方向で問題が解決することを願っています。
なお将来的に、外見上異なる性別の方が全裸で風呂場に入ってきても、多くの人が「あ、トランスジェンダーの方なんだな」と普通に淡々と受け止める社会になれば、特段の差し支えも無くなり得るでしょう。現時点においても、銭湯の管理者が事前に「トランスジェンダーの方の利用があります」と注意書きをしておいて、多くの人がその意味を正しく理解して不安なく利用される社会であれば、何も問題はありません。そういう管理権の行使の仕方もあり得るものとも思います。ただ現時点で、トランスジェンダーという言葉の持つ意味がそこまで多くの方まで正しく受け止められていると思えない実情があることが、その妨げになっていると考えます(だから理解増進がまず必要だと思っているのですが)。
なお、「米国や英国での混乱」については特に私は承知をしておりませんが、「自分が女だと主張する男が女性を襲う事件」が日本においてあったことは承知しています。誰が何を主張していようとも、人を襲えば暴行罪や強制わいせつ罪などにあたる犯罪であることは論を俟ちません。もちろんLGBT理解増進法案はこれを認めるものではありませんし、そもそも犯罪をLGBTの話として語ることが適切ではありません。
●経済産業省の女性用トイレの使用制限に関する国賠訴訟について
とはいえ、刑法第百三十条では、建造物等への立ち入りや不退去に関し、「正当な理由がないのに」という条件を付けています。管理者の立ち入り制限が不当であるとして、後日紛争化する可能性は、現行法制下でも当然あります。日本国憲法第三十二条において「何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪はれない」と規定されている通りです。LGBT理解増進法があろうがなかろうが、その点は変わりません。
トランスジェンダーに関する場の管理者の権限行使に関して訴訟で争われた例として、経済産業省が国家賠償請求を求めて訴えられた事件があります。原告は、経済産業省に勤務する、トランスジェンダー(Male to Female)で性同一性障害と診断されているものの医学的理由で性別適合手術を受けられず性別変更手続きができない方です。所属部署から2階以上離れた階の女性用トイレを使用するよう条件を付けられていた上、その後人事担当者や上司から「性別適合手術を受けなければ異動できない」「異動先でカミングアウトしなければ女性用トイレの使用を認めない」などと人事異動についても条件を付けられたこと、その際に「なかなか手術を受けないんだったら、男に戻ってはどうか」などと上司から言われたことなどがありました。原告は抑うつ状態となり約1年2ヶ月の病気休職となった上、10年以上人事異動していないことなどを不服とし、平成25年12月に人事院に対して行政措置要求を行ったものの認められず、平成27年11月に東京地裁に対し、行政措置要求判定取り消し請求訴訟と、職場の処遇と上司らの発言についての慰謝料、病気休職による逸失利益、治療費等の賠償を求める国家賠償請求訴訟を起こしたものです。
令和元年12月の東京地裁判決では、女性用トイレの一部制限および上司の発言の違法性が認められましたが、原告と被告双方が不服として控訴されました。令和2年5月27日の東京高裁判決では、上司の発言は違法性が認められたものの、女性用トイレの一部制限の違法性は認められませんでした。
地裁判決、高裁判決共に、自らの性自認に基づいた性別で社会生活を送ることは、法律上保護された利益であることを認めています。その上で、地裁判決は、性同一性障害の診断を受けていたこと等の事情(後に細かく記します)に照らしてトラブルが生じる可能性はせいぜい抽象的なものにとどまり、経済産業省もそのことを認識できたであろうと認め、経済産業省の庁舎管理権を認めた上で、原告に条件を課し続けたことは庁舎管理権の行使に当たって尽くすべき注意義務を怠ったものとして、国家賠償法上違法の評価を免れないものとしました。一方で高裁判決は、「他の職員が有する性的羞恥心や性的不安などの性的利益も併せて考慮し、一審原告を含む全職員にとっての適切な職場環境を構築する責任を構築する責任を負っていることも否定しがたい」として、女性用トイレの一部制限の違法性は認めないこととされました。
※なおこの項目については、下記資料を参考に記しています。
・労働基準判例検索
・(第5回)経済産業省事件再考――トイレ問題から差別問題へ・控訴審判決をめぐって(立石結夏)
●対経済産業省国賠訴訟から見えること
この事件については依然最高裁に係属中であり、最終的な結論は見えていませんが、この二つの判決の共通点および相違点を比較すると、いくつかのことが見えてきます。
1) 自らの性自認に基づいた性別で社会生活を送ることについて
いずれの判決においても、自らの性自認に基づいた性別で社会生活を送ることは、法律上保護された利益であることを認めています。これは性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律(平成十五年法律第百十一号)が既に存在していることなどが根拠とされています。まだ最高裁の判断は出ていませんが、一審二審ともに認められていることから、ここが覆ることはないと思われます。したがって、今から「(戸籍上の性ではなく)性自認によって社会生活を送ることは、認められない」という議論をしても、おそらく意味がありません。ほぼ判例として確定されているものと考えます。
2) トイレの使用における設置者の管理権について
こちらについても、いずれの判決においても、トイレの使用を規制することには法令上の規定がなく、経済産業省が有する庁舎管理権の行使として行われていると認められています。
3) 争われているのは「差別かどうか」ではない
一審と二審で判断が分かれているのは、その管理権の行使について、一審では「庁舎管理権の行使に当たって尽くすべき注意義務を怠った」として経済産業省の判断が違法と評価されたことに対し、二審では「一審原告を含む全職員にとっての適切な職場環境を構築する責任を負っていることも否定しがたい」として、経済産業省の判断に違法性はないと評価されたことです。その差は、一審では①原告が性同一性障害と診断され、女性ホルモン投与により女性に性的危害を加える可能性が低い状態に至っていたことを経産省も把握していたこと、②女性用トイレは構造上他の利用者に見えるような態様で性器等を露出するような事態が生ずるとは考えにくいこと、③原告は行動様式や振る舞い、外見から女性として認識される度合いが高いことなどを理由とし、「トラブルが生じる可能性はせいぜい抽象的なものにとどまる」と評価していることに対し、二審では前述の通り「他の職員が有する性的羞恥心や性的利益も併せて考慮し、一審原告を含む全職員にとっての適切な職場環境を構築する責任を負っていることも否定し難い」としたことに拠ります。
三権分立を原則とする日本憲法下において、いずれの判決に対しても立法府に属する私が是非を評価をすることは慎むべきと考えますし、現在最高裁に係属していますのでその判断を待ちたいと考えます。ただいずれにせよ、原告の利益とその他の職場の方々の利益との対立が想定され得る状況下で、どのように管理権を行使することが適切なのかが問われているということです。単に、経済産業省の判断がトランスジェンダーの方に対する差別にあたるかどうかが問われている訳ではありません。
例えばトイレと公衆浴場だけを考えても、全裸になり不特定多数の人と広い空間を共有するのか、入り口は一緒だけど個室に入るのかと、空間構成は大きく異なります。また先にも記したように、トランスジェンダーの方と一概にいっても、診断を受け、性別適合手術も受け、戸籍変更の手続きを行った方から、今回の原告のように診断は受けたが事情により性別適合手術を受けられない方もおられますし、さらに言えばカミングアウトできていない方まで考えなければなりません。それぞれの希望も必ずしも同じわけではないでしょう。
橋本個人としては、その方々個人の事情と、その場の事情とそれぞれを勘案して適切な折り合いをつけることが大事なのであって、一方的に「トランスジェンダーの方お断り!」とするのは如何なものかと思う一方で、トランスジェンダーの方に何らかの配慮を求めることすら「差別だ!許せん!」という話になるのも、同様に如何なものかと考えます。さらに言えば、女性用トイレにおける安全確保が心配なのであれば、誰かの使用を禁止する以外にも、防犯ブザーをつけるような別の解決策を講じることもできるのです。そうすれば、いかなる性別の人が押し入ろうとしても、利用者の安全を守ることができるでしょう。このような方策も十分検討に値するのではないでしょうか。
一般の方ならともかく、少なくとも政治家は、何らかの対立があった場合に一方の利益のみを主張し相手を不安視し現状を守れればそれを良しとするのではなく、双方の利害得失を考慮した上でできるだけ多くの関係者が納得して気持ちよく問題が解決できる方法を目指して知恵を出し、実現するのが仕事なのではないかと個人的には考えています。
なおご参考までに、サービス類型ごとにどのような対応が考えられるのか検討した文献として「(第1回)男女別施設・サービスとトランスジェンダーをめぐる問題(立石結夏・河本みま乃)」を挙げておきます。
4) 上司の発言について
今回の訴訟におけるもう一つ重要なポイントは、「なかなか手術を受けないんだったら、もう男に戻ってはどうか」という、原告に対する上司の発言は、「原告に対する業務上の指導等を行うに当たって尽くすべき注意義務を怠ったもの」(一審判決より)として、いずれの判決においても国家賠償法上違法とされていることです。これは、戸籍上の性別とアイデンティティとしての性別が異なっていること、医学的理由により手術を受けられないことの双方がいずれも本人にとっても不随意であり、結果として深刻な葛藤に陥っているという本人の状況を全く理解も顧慮もせずに、不用意に発せられた言葉だからであろうと思われます。こうした発言は、発言者はさしたる意図なく、おそらく全く悪意なく発した言葉であろうと思うのですが、一方で発言された側は全くの無理解に深く傷つくことになることであり、単にコミュニケーションをこじらせる原因にしかなりません。
そして私は、多くの当事者を苦しめているこうした発言が、性自認が多様であることについての無理解から発せられているのではないかと考えています。例えば、必ずしも戸籍上の性別とアイデンティティとしての性別が一致しない方が存在すること。そのことは当事者にとっては不随意でありどうにもならないこと。法律によりそれらを一致させるための途は設けられているものの条件があるため必ずしも皆が達成できるわけではないこと。そしてなかなかこうした事情が理解されないために多くの方が苦しみ、実際に自殺の要因として挙げられていること。せめてそうしたことを知識として知っているだけでも、当事者の方々を不必要に傷つけることは減るでしょうし、トラブルも少なくなるものと考えます。
一方で、この上司の人を「差別者だ!」と糾弾したところで、その人は上司としての立場を失うかもしれませんが、何が悪かったのかを学ぶ機会もなく、また繰り返してしまうかもしれません。もしかしたら、もうこの問題には触れるのも嫌だということにも繋がります。だとすれば何のために糾弾するのかという話にもなり得ます。糾弾は、目指すべき融和と共生のある社会に役立つのでしょうか。このあたりは、当事者側に立った活動をする方々にも、できれば少し考えていただきたいことです。
日本国憲法第十四条は「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」と定めています。これを踏まえれば当然に性自認によっても差別されない社会を目指すべきだと思います。一方で、法律で禁止すれば差別はなくなるというほど底の浅い問題だとも考えません。知識の普及や個別の現場における具体的な対応策のコンセンサス形成など、地道な取り組みが大事だと思います。「急がば回れ」です。だから、私は、理解増進法をまず考えるべきだと思っているのです。
●差別の定義について
大幅に遠回りしましたが、柳沢様のコメントに戻ります。「理念法とはいえ「差別」という言葉の定義を全くしないのも問題です。要らない分断を発生させる可能性が高いです」とのことです。確かに「差別」という言葉は定義しづらいところがあります。ですので、私はできるだけ「差別」という言葉を遣わないように議論をしていますし、例えば先の判決も「差別」という言葉は遣われていません。一方で、先に挙げた日本国憲法や、障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律(平成二十五年法律第六十五号)、部落差別の解消の推進に関する法律(平成二十八年法律第百九号)など既存の法律においても、「差別」という言葉の定義はありません。したがって、法律上「差別」という言葉の定義がないことが問題だとは思いませんし、両法律の例を見てもこれらが社会の分断を促しているとも感じていません。
ただし強いて言えば、障害者差別、部落差別ともに、政策課題としては長年の歴史と蓄積があるイシューであり、いずれも具体的にどのような行動が差別に当たるのかそれなりに関係者に共有されていることに対し、性自認や性的指向については政策課題としては比較的新しくまだ知識の共有も進んでいないとは言えるかと思います。この点も、私がまずは理解増進から行うべきではないかと思っている理由の一つです。
なお、個人的には、誰かが何かを主張した際に、反対論や異論があることをもって「社会の分断を発生させた」という非難をするのは、どのような立場であれとても嫌いです。これは逆を言えば、単にもっともらしい言葉で同調圧力をかけていることに他ならないからです。分断を生むなとか無くせとかいうよりも、それぞれの立場の違いを認識しつつ協議と合意を目指せと指摘すべきだと常に思います。
●結語
柳沢様のコメントの結語として「ついては性自認を認めることとそうした人に対する差別条項を入れることは絶対にしないようお願い致します」とされています。まず、「性自認を認めること」については、柳沢様の「性同一性」と「性自認」との言葉の使い分けが私に理解できていない面もあるのだろうとは思うのですが、少なくとも前述の通り判例では「性自認の通り生きること」は既に法律上保護された利益として既に認められており、あまり議論の余地はないものと思います。
「そうした人に対する差別条項を入れること」というのも少しアヤのある日本語ですが、文脈的にいわゆるLGBT理解増進法案において「差別は許されないという文言を入れること」と理解することとします。現在、第三条において「性的指向及び性自認を理由とする差別は許されないものであるとの認識の下に」とあり、自民党内の議論において「差別はあってはならない」と修正すべきというご意見がありました。個人的にはどちらにしても単に同じ意味の認識を示しているだけで、法律としての具体的な効力がないことにも違いはないため正直どっちでもよく、なんなら日本国憲法第十四条にあわせて「差別されない」としても構わないとも思っています。いずれにせよ理解増進という法案の趣旨にも直接影響しません。この言葉は党内外の議論の中で法案に追加された文言であり、私としては、合意形成さえされれば、いずれの選択肢もあり得ると思っています。
そして先にも記した通り、現に起こっている訴訟において「差別にあたるかどうか」が争点になっていないことから鑑みるに、LGBT理解増進法案に「差別は許されないものであるとの認識」等と記してあってもなくても、あるいは差別の定義が記されていなくても、法律の記すところを適切にご理解いただければ実際に起こり得る紛争に影響はなく、したがって、今議論されているいずれの表現であれそのような認識を記すことにご懸念のような問題はないものと考えます。
さて、随分と長い文章になりましたが、柳沢様のコメントにお応えする形で、いわゆるLGBT理解増進法案、特に性自認に関する議論に関して、私の思うところを申し述べました。法学を専門に学んだ弁護士なわけでもありませんので、おかしなところもあるかも知れません。その際にはご教示賜れば幸いです。また、きっかけをいただいた柳沢様に、重ねて深く感謝を申し上げます。
以前、稲田朋美政務調査会長の下、性的指向・性自認に関する特命委員会が設けられた際、古屋圭司委員長は「そもそも保守とは、多様性を包含するものなのだ」とおっしゃっていました。私はこの言葉を頼りに、自民党の中で議論を続けています。
どうかこのブログ記事が、ご覧いただいた方のお役に立ち、相互の理解と尊重に繋がりますように。