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2023年2月

2023年2月13日 (月)

同じ性別同士の者の結婚を可能とすると、どう社会が変わるか(補論)

 先日、ブログ「同じ性別同士の者の結婚を可能とすると、どう社会が変わるか」を記したところ、いくつかコメント等のリアクションをいただきました。ご覧いただき、誠にありがとうございました。また、週末を過ごして思うところもいくつかありました。そうした諸点をさらに議論の参考にしていただきたく、バラバラといくつか補いたいと思います。

日本の文化との折り合い

 先のブログでは、主に法制度上の議論のみ行い、ただし信教の自由に関しては留保をするというスタンスで記しました。その後、我が母校慶應義塾が主催する小泉信三第47回小論文コンテスト(2022年実施)で小泉信三賞を受賞した作品「『全性愛論』~自由恋愛と異性愛規範を見つめ直して」をご教示いただき、読んで改めて頭の中をかき回され(読み物に歯ごたえを求める諸兄姉には、ぜひご一読をお勧めします)、作者の強烈な意志と、発想の囚われなさと、しかし理想の実現を100年先というかなり遠い先の話と感じさせてしまうむごさとを抱えながら世の中を見てみると、いろいろなものが目につくようになりました。

 わかりやすいのが、3月3日の桃の節句に飾るひな人形とか、5月5日の端午の節句に掲げる鯉のぼり。お内裏様とお雛様は二人並んですまし顔ですし、大きな真鯉はお父さんで小さな緋鯉はこどもたちなのです。お母さんはどこに行ったのか?そもそも吹き流しの意味は?など気になりますし、そもそも端午の節句、すなわち休日法における「こどもの日」が事実上ほぼ男子の日であることも気になります。いずれにせよ、こうした「夫婦」「お父さん・お母さん・こども」といった家族観が当然とされる文化背景の中で私たちは育ってきたということが、改めて自覚されるわけです。法制度とは直接関係するわけではありませんが、「平等」「差別」といった概念をこの世界に普遍的に持ち込まれた際には、場合によっては排撃の対象とされるのかもしれませんし、しかし排撃したところで過去を書き換えるわけにもいきませんし、相当の摩擦も免れないでしょう。

 ただ、昔は、鯉のぼりは真鯉一匹だったともされているようです(参考:東京新聞「赤い鯉はお母さん?子供たち? 童謡『こいのぼり』の不思議。」2022年3月15日)。若干話はズレますが、今や全国的に展開される節分の恵方巻の習慣も、私が子どもの頃は一部地域のものだったはずです(私が初めて知ったのは、中学生頃に読んだ小林信彦の小説『唐獅子源氏物語』だったような気がします)。そういう意味では、伝統的日本文化とされているものには、実は可塑性がかなりあるようにも感じますので、お互い硬直的に考えすぎず上手に折り合いをつけていく道を考えていく必要があるのではないかと考えます。国技大相撲が外国出身者を上手に受け容れつつ、なお存続しているように。あるいは源氏物語が、現在的視点で見るとかなりヒドイ話であるにも関わらず、古典として尊ばれさまざまな二次創作の源になり続けているように。

 なお、キリスト教やイスラム教が厳格に同性愛を罪としていたことと比較して、日本においては比較的同性愛には寛容であったということも言われます。ただ概ね、武将とその小姓の関係といった形であり、日本における歴史・古典世界に同性「婚」という考え方があったのか、あまり私の知るところでは見覚えがない気がします。ここはより博識な方の登場を待ちたいと思います。

制度的な議論についての補遺

 いくつか、制度についてもリアクションをいただきました。一つは、配偶者控除という税制について。私は先のブログでは、民法等改正により同性同士の婚姻を認めたとすると、当然に税制等もついてくるものと考えている旨記しました。これは、同性間の婚姻と異性間の婚姻について合理的に差を設ける理由が考えられないからです。ただし現在、少子化対策の観点から、子がいる家庭についてより税制的な支援も厚くすべきという議論があります。同性婚か異性婚かを問わず、そうした観点からの検討は行っても良いかもしれないとは思っています。また、遺族年金に男女で受給資格に差があることも、この際解消するべきでしょう。

 子の嫡出に関して「生殖補助医療の提供等及びこれにより出生した子の親子関係に関する民法の特例に関する法律(令和2年法律第76号)」の第十条に関するコメントをいただきました。この条文は、夫の同意を得て妻が他人の精子等を用いた生殖補助医療により懐胎した子については、夫、子、妻は嫡出の否認ができないことを規定します。妻甲妻乙間で、同意により他人の精子等を用いて妊娠した場合も、この規定に準じることとするのは合理的だと考えます。

「性的指向・性自認の多様性に関する理解の増進に関する法律案」について

 先のブログから、同性同士の婚姻を法律で認めることについて議論しています。一方で今国会では「性的指向・性自認の多様性に関する理解の増進に関する法律案」が成立するかどうかといった点がメディアで焦点とされています。これについては「自民党における性的指向・性自認の多様性に関する議論の経緯と法案の内容について」の後半で思うところを記していますので、ご覧いただければ幸いです。同性婚の議論を行うにしても、性的指向とはどういう概念か、共通理解を作らなければ議論にもなりません。そういう意味で、まずは第一歩を進むための法律となると考えますので、ぜひこの機運を活かして各議員がそれぞれしっかりと自分の頭で考えた意見を持ち、その中で成立に向かって合意形成が図られることを期待しています。

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2023年2月10日 (金)

同じ性別同士の者の結婚を可能とすると、どう社会が変わるか

はじめに

 荒井勝喜前総理秘書官の発言や、岸田総理の衆議院予算委員会における発言が契機となり、LGBTに関する議論がにわかに注目を集めています。以前、自民党の性的指向・性自認に関する特命委員会事務局長を務め、このテーマに取り組んでいた経緯がある身として、やはりいろいろ感じるところはあります。特に、岸田総理は衆議院予算委員会において、同性婚について「社会が変わっていく問題」という表現を2月1日にされました。8日に総理はさらに質されて「ネガティブな意味ではない」と述べ「議論をすべき」と答弁されましたので、では、同じ性別同士の結婚を可能とすると、何がどう変わるのか、変えないといけないのか、私なりに議論してみたいと思います。

 なお私の過去の取り組みについては「自民党における性的指向・性自認の多様性に関する議論の経緯と法案の内容について」をご参照ください。この内容はおおむねご理解いただいているものとして、以下を記します。

まず荒井前総理秘書官発言について

 本題に入る前に、荒井勝喜前総理秘書官の発言について思うところを記します。報道によると、総理官邸で記者団に総理発言について問われ、「同性婚導入となると、社会のありようが変わってしまう。国を捨てる人、この国にはいたくないと言って反対する人は結構いる。隣に住んでいたら嫌だ。見るのも嫌だ」と発言したとされています(参考:2月7日付東京新聞記事)。

 「社会のありようが変わる」かどうかは後に議論します。また、国を捨てる人などがいるかどうかは確認のしようがありませんから、そういう意味では根拠のない発言ではないかと思いますが、もしかしたら荒井氏の知り合いでそのように発言する人がいたのかもしれません。ただ、「隣に住んでいたら嫌だ。見るのも嫌だ」というくだりは、ご本人の主観を述べたものと思われます。そもそも私は、社会人の常識として、他人の不随意な特徴や属性に対して第三者に不快感を示すことは、その相手を侮辱し、卑しめ、尊厳を傷つけることになるので、極めて慎重であるべきだと考えます。本人としては「単なる自分の感想」を言っただけのつもりであっても、言われた相手は深く傷つき、無力感や自己否定感などに苛まれることになり得ます。「単なる感想」などという言い訳は許されません。特に、その特徴や属性を自ら受け入れることにも困難がある場合はなおさらです。髪型やその多少、体形、性別、障害の有無、疾病(特に感染症)罹患の有無、家族、学歴、出身国や出身地、職業、収入の多寡などについて、こうした表現を行うことは一般的に「差別」として扱われ、表現を控えるべきこととされています。そして性的指向および性自認についても、当然に同様に取り扱われるべきものです。法務省のパンフレットに書いてあるようなことを総理秘書官が全く理解していないことが露呈してしまったわけであり、更迭は当然です。

 なお、オフレコ発言が記事にされていますが、勤務時間中に総理大臣秘書官として総理官邸で記者相手に語られた内容だったわけであり、総理の意図を補足する趣旨で行われたことが明白ですから、やはり単なる個人的感想で済む状況ではないことも明らかであり、記事にされるのもやむを得ないことだと考えます。酒場で酒を飲んで語られても、眉を顰めるべき内容ですが。

性別が同じ者同士の婚姻についての法律的な議論

 本題に入ります。なお、以下では話を単純にするために、性自認の話は控え、夫・父=男性、妻・婦・母=女性という前提で議論します。もちろんトランスジェンダーなどの方の婚姻についても議論されるべきですが、とても応用問題になりますので、まずは、性別については男性または女性に区画されているケースを念頭に置くこととします。また、私なりに調べながら記していますが、弁護士でもありませんので、私の誤解や無理解があれば、ご教示いただければ幸いです。

 まず、異性間にのみ婚姻を認める根拠がどこにあるのかという課題について。歴史的に、異性間に婚姻を認める根拠は、子をなすことができることにあると思われます。ただ、では子をなさない二人の間には婚姻を認めることはできないと決めつけてよいかといえば、そうは言えないのではないかと私は思います。というのは、既に現時点でも、疾病や加齢によりその能力が失われていても、また本人たちの意志等の理由で子をなさない場合であっても、婚姻は認められるからです。また、宗教によっては、婚姻は異性間のみしか認めない場合も現在でもあります。本人たちの信教の自由は保護されるべきですが、憲法によって政教分離が定められている日本において、特定宗教の教えを根拠に法律を決めることはできません。そう考えると、同じ性別同士の者に婚姻を認めた場合にどのように社会が変わるのか、メリット・デメリットを検討し、社会が受け入れられるかどうかによってのみ判断されるべきものと考えます。

 日本国憲法では、憲法第二十四条において「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立する」と書いてあります。この規定について現在の日本政府は、双方の性別が同一である婚姻を「想定していない」という見解を維持しています(参考:衆議院逢坂誠二君提出日本国憲法下での同性婚に関する質問に対する答弁書、平成三十年五月十一日)。したがって、現時点では双方の性別が同一である婚姻は憲法違反であるともしていません。しかし民法や戸籍法は後述のように「夫婦」「夫・妻」などの表現を用いていますので、現在は「夫夫」や「婦婦」の婚姻届は受理できません。ですから、問題は、民法や戸籍法などの改正をするかどうかにかかっているということも可能です。ただそうはいってもやはり「両性」という表現は素直に「男性と女性」と解するのが常識的だとは思いますので、仮に同性同士の婚姻を法律で規定する場合には、あわせて憲法第二十四条を「両人の合意にのみ」などと明示的に改正する方がより望ましいと個人的には考えます。

 さて「婚姻とは法的にどのような効果を持つものなのか」をおさらいします。民法第二章第二節・第三節では、夫又は妻の氏を称すること(第七百五十条)、同居し、互いに協力し扶助しなければならないこと(第七百五十二条)、資産、収入その他一切の事情を考慮して、婚姻から生じる費用を分担すること(第七百六十条)、夫婦の一方が日常の家事に関して第三者と法律行為をしたときは、他の一方は、これによって生じた債務について、連帯してその責任を負うこと(第七百六十一条)が定められています。また不貞行為や悪意で遺棄されたときには離婚の訴えが提起できる(第七百七十条)ことが定められており、これらを行わないことも夫婦間の義務と考えられるべきです。

 夫夫間または婦婦間でも、両者の届出によりこうした効果を持たせる法改正をしたとして、特段の変化が第三者としての社会にあるかと言えば、個人的には、特に問題ないものと思うのですが、どうでしょうか。当然、民法等で婚姻を認めることとすると、例えば国民健康保険の第3号被保険者になれるといった、社会保障制度や税制上で配偶者に認められている権利はついてくることになるでしょう。また、第七百六十一条の連帯責任規定は当事者の方々には極めて重要で、おそらくこの条文が、例えば家族として手術の同意等ができる根拠となるものと思われます。こうした関係性を同性間で認めては、なぜいけないのでしょうか。

 子の取り扱いについて考えてみましょう。まず、妻が婚姻中に懐胎した子は、夫の子と推定されます(第七百七十二条)。夫夫間の婚姻の場合はあまり考える必要ありませんが、妻妻間の婚姻の場合は、懐胎はし得ます。仮に妻甲が懐胎したとして、そのまま妻乙の子と推定することとしてしまってよいのでしょうか。現実には第三者の精子提供その他の手段によって懐胎しているのでしょうが、妻乙の同意の上であればそれでも差し支えないかもしれません。同意できない場合は、第七百七十四条を読み替えて妻乙が嫡出否認をすることができることとすれば、法的には整理できます。

 その上でもう一つ整理が必要なことは、精子提供した者等は第七百七十九条に基づく認知をすることができるかどうか、かも知れません。現時点では「嫡出でない子は、その父又は母がこれを認知することができる」とされていますので、妻甲妻乙の嫡出とされた子について、その父は認知できないこととなります。これは、子や精子提供者の権利を保護する観点から、異論があるかもしれませんね。

 なお、実質的な議論を先に述べましたが、仮に同性の者同士の婚姻を可能にする法改正をすることを想定すると、別の課題もあります。というのは、既に記してきたように、民法も戸籍法も「夫婦」「父・母」「夫・妻」という表現がなされているので、例えば「夫婦(夫夫の場合および婦婦の場合も含む)」みたいな読み替えまたは書き換えをするか、全面的に「配偶者甲・配偶者乙」あるいは「親甲・親乙」といった性別に依存しない表現に改めてしまうのか、どう具体的に法律の表現を修正するかという技術的な課題は、あります。もしかしたら、これを決める方が難しいかもしれません。また仮に前記のように性別に依存しない表現をするものとすると、その延長線上には「配偶者丙」といった3人目まで観念できてしまうという副作用が発生します。性別依存の表現は、2人だけという婚姻の「人数」を確定するという効果もあるのです。しかしさすがに3人以上の婚姻は議論の対象とするべきではないと考えます。そこを明示的に制限する意味では、憲法第二十四条を「両人の合意」と改正する必要が、より高まるといえるでしょう。

 いずれにしても、こうしたことを突き詰めていくことが、立法府にあるものとして「同性婚について議論をすること」であると私は考えるのですが、いかがでしょうか?

社会はどう変わるのか

 既に、同性同士で共同生活をしていたりする人は、現実に存在します。これは法律上同性婚を認めようが認めまいが事実としておられます。もしかしたら、法律で同性同士の婚姻を認めることにより、共同生活を選択する方々が増えるかもしれませんが、別段その方々のもともとの性的指向が変化したわけではなく、一人暮らし同士が二人暮らしになるだけです。パートナーシップ制度を導入した自治体においても、いま私が耳にしている範囲では登録したカップルの数は限定的ですし、極端に同性愛の方の人口が増えたという話は耳にしません。そういう意味で、社会保障制度等の財政的な面も含め、マクロでは社会にさしたる影響があるとは思いません。一方、当事者の方々からすると、二人の紐帯が社会から認められることとなり法的保護も受けられるようになるので、喜ばしいことでしょう。そういう意味では、差し引きしても、社会は良い方向に変化するかもしれません。

 法律や制度以外に、社会において何が変わるでしょうか。知人の結婚式に招待されて行ったら、二人ともウエディングドレスを着ていたり、二人とも紋付袴を着ていたりするかもしれません。別段何か困るとは思いません。知人が生涯のパートナーと出会えた幸福を素直に祝ってあげればよいのではないかと思います。子には父と母が必要だ!それが家庭のあり方だ!という向きもおられるかもしれませんが、世の中、まだ異性婚しか認めていないのに、既にシングルマザーやシングルファザーも、再婚やそれ以上の回数の結婚をする方も、決して少なくない現実をどう考えるのでしょうか。或いは、私の子たちには、諸般の経緯により「父」「母」「養母」と親が3人戸籍上に存在しますが、彼らなりにそれぞれに上手に付き合ってくれています。この家族を誰にも否定される謂われは、ありません。

 先にも記しましたが、宗教上異性のみが婚姻対象という方はおられると思います。その方に無理に同性同士の結婚をさせるという話ではありません。とはいえ、結婚式を挙げる宗教施設が宗旨上同性婚カップルを受け容れられないというケースはあるかもしれません。ちょっと議論が要るかもしれませんが、例えば学校において男子校や女子校の存在が「差別」とはされないように、信教の自由も尊重されるべきですので、個々の施設の受け入れ可否は個々の施設の判断に拠るものとしても、特に差し支えはないのではないかと思います。

 ただ一つだけ注意を要するのは、例えば人前で同性同士が手を繋いで歩いていたりするのが単に「嫌だ」とか「気持ち悪い」とか「見たくない」といった理由は、先の荒井勝喜前秘書官のロジックと全く同じであり、社会的には、理由にしてはならないと考えます。もちろん、品位を保持すべき場面でいちゃついていたら、当然に同性間でも異性間でも問題になります。

結語

 個人的には、同性婚を仮に法律上認めることとしても、当事者の方々には法的に関係性が保護されることとなりかつ社会的に認められるという大きなメリットがある一方で、それ以外の方も含めた社会全体がびっくりするほど変わったり、多くの人に影響が生じたりは、しないと思われます。そう考えると、法律表現上の技術的課題をクリアさえできれば、反対する理由は、特に見あたりません。ですから現時点で、同じ性別同士の婚姻を法律で認めることについて個人としての賛否を問われれば、賛成です。そして岸田総理は「議論をすべき」とおっしゃっているのですから、今後さらにこのような具体的な議論が国会や自民党で深められることを、期待しています。

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2023年2月 7日 (火)

子ども手当法案に自民党が反対した理由について

 今国会冒頭、1月25日の衆議院における代表質問において、自由民主党の茂木敏充幹事長が、児童手当について「所得制限を撤廃するべきと考えます」と発言されました。このことに関し、平成22年の自民党野党時代に当時の民主党政権が提出した「平成二十二年度における子ども手当の支給に関する法律案」に反対したことを指摘した批判が見られました。そこで、自民党が当時なぜ当該法案に反対したのか、その理由を衆議院本会議における討論をもとに下記に整理しました。ご覧いただければおわかりの通り、単純に、当時提案された子ども手当が所得制限を設けていないことをもって反対したものではありません。13年が経過し、自民党の議員でも当時の経緯を知らない方も増えていますので、ご参考にしていただければ幸いです。

 この議論の当時から考えると、子ども・子育て支援新制度や待機児童対策、保育・教育の無償化などの実現、こども基本法やこども家庭庁の設置など、こども・子育てを取り巻く政策はさまざまに進捗しています。一方で、なお少子化に歯止めがかかっていない現状は、率直に反省しなければなりません。こうしたことを踏まえつつ、未来志向で議論が行われることを期待しています。

  1. 児童手当法から「家庭における生活の安定に寄与する」という文言を削除しており、家族、家庭の役割を否定する考え方が看過できない。
  2. マニフェストに示された満額26,000円の算出根拠が示されず、あいまいな答弁に終始した。
  3. 「こどもの貧困をなくす」「格差の是正」と言いながら、所得制限を設けていない。
  4. 第一子、第二子、第三子とすべて同額である。傾斜配分すべきである。
  5. 現金給付のみが突出している。現物給付にもバランスよく配分すべき。
  6. 児童養護施設入所児童のうち、措置入所の子とそれ以外の子で支給有無が異なる。
  7. こどものために使われることの担保がない。
  8. マニフェストでは全額国庫負担とされていたが、地方負担と事業主負担を残した。
  9. 無理なスケジュールで強行しようとしているため、市町村に過剰な事務負担となる。
  10. 在日外国人の母国在住のこどもや養子他支給基準を満たしていれば支給対象となる一方、日本にこどもを置いたまま外国で働いている日本人に支給されない。また、そのことを認識したにも関わらず是正せず法案採決を強行している。
  11. 恒久財源が明らかでない。

※上記は、第174回国会衆議院本会議における田村憲久衆議院議員による討論(平成22年3月16日)(議事録)を要約したものです。

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