安倍晋三元首相をしのぶ
令和4年7月8日、安倍晋三元首相が銃撃され、急逝されました。誠に残念で悔しいことです。まずは、心から安倍元首相のご冥福をお祈り申し上げます。正直に記せば、私は自民党議員にしては自民党総裁選挙で「安倍晋三」と投票したことが無いという比較的珍しい立場であり、近しい存在だったとは必ずしも思いませんが、それにも関わらず急逝は自分でも意外なほどショックでしたし、幾度も涙もこぼれました。振り返ってみても様々思い出されることもあります。私が政府に入った厚生労働大臣政務官、二回の厚生労働副大臣は、いずれも安倍政権において務めたものです。安倍元首相といえば「アベノミクス三本の矢」と称される金融緩和・財政支出・規制改革の経済金融政策や、価値観外交やTPP、安全保障法制や特定機密保護法などに代表される外交安全保障面の政策、各国首脳との信頼関係に基づく外交、東京オリンピック・パラリンピックや大阪万博の誘致などが注目されます。もちろんこれらも大きな実績です。同時に、私の眼から見て、厚生労働分野にもさまざまな実績を残されました。私なりに安倍晋三元首相を偲び、この分野に関してご足跡を記してみます。
ひとつは、人口減少を正面から政策テーマに据えたことです。もちろんそれまでも少子化対策という政策分野はあり施策は取り組まれていました。しかしその甲斐なく、日本の人口が2009年に減少に転じました。ただ、子育て支援の充実という範囲以上に踏み出すことは、当時の政権は行っていなかったと記憶しています。2014年に増田寛也氏の著書『地方消滅』が出版され、これを契機に第二次安倍改造内閣発足後提唱されたのが「地方創生」でした。そこから地方創生担当相が設置され、さまざまな施策が打ち出されることとなります。残念ながら、まだ東京への一極集中に歯止めがかかるには至っていませんが、とはいえ直面している課題について、それまでの姿勢を転換し、危機感をもって直視する姿勢を時の政権が示したことは、重要なことだったと考えます。その後、人口のうち労働力人口の減少という側面を捉えてその対策としての「一億総活躍社会」というキーワードを打ち出すことに繋がります。さらにその後、菅内閣、岸田内閣を通じて「こども家庭庁」が創設されることとなりますが、振り返ればその原点のひとつであったともいえるでしょう。
「働き方改革」における残業時間規制の実現も、安倍元首相の大きな足跡だと考えます。長年にわたり労働政策審議会において議論されてきたテーマですが、労使の合意が得られず全く前進できませんでした。2015年12月に大手広告代理店の若手社員が自殺したことをきっかけに政策テーマに急浮上し、2016年9月に働き方改革実現会議が発足しました。この会議には、有識者らとともに経団連会長、連合会長がメンバーに加わり、政府側も総理と関係閣僚が並ぶという構成となっており、労働政策審議会の三者構成をそのままに、その上位者が出席する組織体となっていたことがミソです。会議には私も厚生労働副大臣として陪席していましたが、安倍総理が「この会議で労使の合意ができなければ、働き方委改革の法案は提出しません」と迫り、にわかにその場の空気が変わったことをよく覚えています。あとで聞いたところでは、総理の手元の発言メモにはその言葉はなかったそうで、だとすると総理ご自身の言葉で強い決意を示したということなのではないかと思われます。結果、経団連と連合の協議により合意が成立し、歴史的な残業時間規制の実現につながりました。また同時に、同一労働同一賃金や高度プロフェッショナル制度といった改革も実現しています。もともと自民党において労働問題は必ずしも重要なテーマとは思われていない面がありますが、安倍元首相は第一次安倍内閣で「再チャレンジ政策」「労働ビッグバン」を唱えており、この分野にも造詣が深かったものと偲ばれます。
私が2005年に初当選する前には自民党幹事長を務められ、その後内閣官房長官、内閣総理大臣と出世されていったため、残念ながら、厚生労働分野の先輩として接する機会はありませんでした。若手の頃には自民党社労部会長(今の厚生労働部会長)や衆議院厚生労働委員会理事などを務められており、社会保障や労働の分野に詳しいのは自然のことであったのかもしれません。年金の法案審議のために衆議院厚生労働委員会に総理大臣として出席された際にも、野党議員からのやや意地悪にも思える質問にも的確な答弁を繰り返され、その鮮やかな切り返しは舌を巻くものでした。また難病医療法の成立や、ハンセン病家族国賠訴訟の控訴断念と補償措置の実現にもお力をいただいたことも触れるべきでしょう。社会保障・雇用労働分野に関して、ゆっくりお話しを伺う機会があればよかったのに…と改めて悔いるばかりです。2018年の豪雨災害における真備町の洪水では、いち早く状況把握に来岡され被災現場や避難所を見てくださったことも、誠に心強いことでした。
私が厚生労働部会長をしていた2017年秋の衆議院総選挙において、自民党の公約として消費税財源を利用した幼児教育保育費の無償化が突如掲げられたため、選挙後の政調全体会議において当時の岸田文雄政務調査会長の眼の前で強く抗議したことがありました。その後しばらく経って、ある懇親会の席で当時の安倍首相からニコニコしながら「橋本部会長が公約に抗議をされたと聞きましたが、次からはちゃんと橋本先生にもよく相談することにします」とイジられたのは良い思い出です。またしばしば「橋本先生の声は本会議場でもよく聴こえるんだよね!」と声をかけていただきました。いつもユーモアを忘れず、気さくにお声をかけていただきました。4月にある懇談の席でご一緒した際、当時話題になっていた核シェアリングについて何故とりあげたのかとお尋ねしたら、まずは問題提起をしたかったという趣旨のお返事を丁寧にいただきました。通常国会終盤の6月に衆議院本会議場を出た廊下にてたまたま並んで歩くことになった際、「橋本先生とはしばらくご無沙汰したね」と話しかけてくださり、「4月の会で核シェアリングについてご質問をして以来ですね」とお応えして、それが安倍元首相と私との最後の会話になりました。7月7日晩に岡山市民会館にお越しになり、力強く小野田紀美候補の応援演説をされ、翌日に奈良県にて遭難されました。その後の経過は報道された通りです。
10日に増上寺で行われたお通夜に伺い、手を合わせて感謝を申し上げました。あまりの急逝に未だに現実感が湧かないのですが、遺されたものはこれを受け止め、辛くてもなお前に進まなければなりません。安倍晋三元首相の生涯は、浮き沈みも毀誉褒貶もある激動の一生でありました。しかしその足跡は、ここで触れた以外にも多数に上り、やはり日本にとって大きな存在であったことは疑うべくもありません。政治家としては、ビジョンを常に高く掲げつつ、状況に応じた柔軟性とバランスを発揮して結果を出し続けていった強烈な現実家だったように、個人的には思います。もちろん北方領土問題や拉致問題、憲法改正のように残念ながら存命中に結果に結びつかなかったテーマもありますが、挑戦は評価されるべきですし、これは私たちに遺された課題としなければなりません。
願わくは、安倍晋三元首相の御霊が、とこしえに安らかにあらんことを。
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