「いつでも、どこでも、誰でも、何度でもチャンスにアクセスできる国日本」-故宮川典子衆議院議員について
今年(令和元年)9月12日、宮川典子衆議院議員が逝去されました。衆議院議員当選3回の40歳とまだまだ若く、乳がんと診断されてからほぼ誰にもそのことを明かさず実に3年半にわたりひそかに闘病を続けていたとのことで、同僚議員の誰もが驚愕する報せとなりました。改めて、心からご冥福をお祈り申し上げます。
ここ数年で在職中に他界された衆参の議員は、町村信孝議員(平成27年6月1日)、鳩山邦夫議員(平成28年6月21日)、白石徹議員(平成29年3月17日)、木村太郎議員(平成29年7月25日)、長嶋忠美議員(平成29年8月18日)、園田博之議員(平成30年11月11日)、鴻池祥肇議員(平成30年12月25日)、北川知克議員(平成30年12月26日)、島田三郎議員(令和元年5月8日)、そして望月義夫議員(令和元年12月19日)と何人もおられます(丸かっこ内は没年月日)。それぞれの先生方とそれぞれに思い出があり、それぞれに悲しみを持っていますが、宮川先生はこの中では唯一の年下であり、外交部会や厚生労働部会、性的指向・性自認に関する特命員会などにおいてさまざまな仕事を共にしていたため、他界から3か月が経った今でも喪失感が癒えていないというのが、正直なところです。
宮川典子先生の人となりは、今年11月12日に衆議院本会議中に行われた野田聖子議員による追悼演説にて余すところなく語られていますが、僕の目からみた彼女のエピソードをさらにいくつか記し残すことで、自分なりの追悼としたいと思います。
第一印象は、「おお、これが参院のドンと闘った宮川さんか!」というものでした。9年前、民主党(当時)政権下における参議院議員選挙において、岡山県と山梨県は、それぞれ江田五月議員、輿石東議員というともに参議院民主党のビッグネームを相手とする選挙でした。そこで自民党岡山県連は新人の女性を候補者として擁立して戦い、自民党山梨県連は同じく新人女性の宮川典子先生を候補者として擁立しました。残念ながらいずれも落選となりましたが、しかし宮川候補は輿石候補をわずか4,000票足らずの差まで追い詰める堂々の大接戦を演じ、注目を集めたのです。その後しばらくして、自民党本部青年局による支部長勉強会(僕も落選中でした)で党本部の会議室で初めてお見掛けして先に書いた印象を受け、「すごい選挙でしたね!」とご挨拶して握手したことを覚えています。
その後平成24年12月の衆議院選挙で宮川先生は当選され、僕も二度目の当選を果たし、国会および自民党において同僚として過ごすこととなります。
会議では必ずピンと腕を伸ばして挙手をし、指名されるや朗々と響く声で、自分の言葉で、自分がオリジナルに考えたことを先輩同輩居並ぶ中堂々と説得力をもって主張する、同期当選119人いる中でも弁舌による存在感のある議員でした。あまりにも舌鋒が鋭すぎて、聞いているこちらが、そこまで言ったらカドが立ってしまうのではないかとヒヤヒヤするようなシーンもちらほらあったくらいです。
たとえば新国立競技場の設計変更の議論の際に、とある先輩議員が「この際、ラグビーワールドカップくらい間に合わないのは仕方ない」という趣旨の発言をしたところ、慶應義塾體育會蹴球部でマネージャーを務めラグビーをこよなく愛する宮川先生は、血相を変えて即座に挙手し「ラグビーワールドカップくらいとはどういうことですか!」とすかさず言い返してタジタジさせていました。心待ちにしていたラグビーワールドカップ開催を目前にして他界されてしまったのは、さぞかし残念ではなかったかと思います。千の風になって、日本代表チームの活躍や大会の成功を見守ってくれていれば良いのですが。
党内でリベンジポルノ防止法案の検討を行っていた際、僕は表現の自由との兼ね合いを主張し、懐疑論者で抵抗勢力状態でした。三原じゅん子女性局長の下、宮川先生は推進派の急先鋒であり、何度か会議で議論を戦わせたことがあります。何回目かの会議で、さすがに僕に直接説教するのははばかったようで、横の方に座っていた総務省の方に向かって(とばっちりで申し訳なかったです…)、「どれだけの女性が取返しのつかない被害を受けて辛い思いをしていると思ってるんですか!もっと真面目に考えてください!!」と叱りつけている宮川先生は、正直怖かったです。これ絶対僕に向かって言ってるよね…と悟った僕はその後論破されてしまい、その次の会議で妥協案を発言したところから議論は前に進みはじめ、成案を得るに至りました。他にも山下貴司議員など多くの方々の尽力で成立した法律ですが、まず頑固な抵抗勢力(僕ですが)を翻意させることに成功した宮川典子先生がMVPだったと個人的には思います。
自民党道州制推進本部において、道州制を推進する法案に関して議論を行っていた際には、宮川先生は、「私は道州制には反対です。私が愛する山梨県が無くなるなど、考えられません!」という発言をされました。正直、道州制への反対意見としては必ずしも理屈になっていないとも思いましたが、しかしあまりのストレートさゆえに最も強く印象に残りました。下手な小理屈をこねられるよりも、よほど心を掴む反対意見でした。山梨県にお住まいの方々は、ここまで率直に地元愛を語る代議士を自民党本部および国会に送り込んでいたことを、誇られるべきではないでしょうか。
自民党内で受動喫煙対策の議論が華やかだった時には、ややもすると愛煙家vs嫌煙家の対立に陥り膠着してしまう議論の状況を憂い、「煙草を吸う人にとっても吸わない人にとっても、全ての国民のための受動喫煙対策であるべき」という立論をし、理解のない状況に思い余って議員連盟を退会してしまう挙に出たこともありました。自分の頭でものを考え、自らが傷つくことをも厭わずに、自らの信ずるところを述べ行動する気迫が常にありました。
役所や専門家など他人の意見を借りて発言をすることは、手っ取り早くもっともらしく間違いがない発言ができる安直な手段です。しかし宮川典子先生は、決してそうした楽なことはせず、必ず自らの見解や感情に基づくオリジナルな発言をする議員でした。これはとても勇気のいることで、なかなか簡単にできることではありません。おそらくは、そのためになかなか理解されなかったり、悪く言われたりすることもあり、陰で心の痛みをこらえることもきっと少なくなかったのではないかとも思います。しかしこの積み重ねが政治家としての実力をつける早道だと僕は思います。早逝が惜しまれる所以です。
宮川典子先生のご発言には、弱い立場の方々、周囲の理解が得づらい方々、顧みられず人知れず辛い思いをしている方々、そして子供たちや若者への共感や期待のまなざしが貫かれていました。おそらく文部科学部会や衆議院文部科学委員会等でもそうした視点に基づく議論を重ねておられたものと思いますが、僕がそれを最も強く感じたのは、自民党性的指向・性自認に関する特命委員会での活動でした。自らの教員時代に同性の生徒から相談を受けたことをきっかけにこの問題に意識のあった宮川典子先生を事務局次長に迎えることができたことが、古屋圭司特命委員長のリーダーシップ、馳浩議連会長のバランス感覚とともに、決してこの問題に意識が高かったわけではない自民党政調内においてセンシティブな議論を続ける原動力となっていました。地道に汗をかくことを苦にせず、先輩方からも信頼の厚かった宮川先生にはとても助けていただきました。
宮川典子先生の熱い話しぶりには各地にファンが多く、しばしば講演や選挙応援に呼ばれて全国に出かけておられました。小泉進次郎議員のように大勢の人やメディアを集めるわけではありませんが、リピーターが各地に根強くおられ、地方出張の頻度は若手ではおそらくダントツだったのではないかと思います。岡山県でも県連学生部創設時や、県連女性局の講演や街頭演説、3年前の参院選における小野田紀美候補の応援、そして2年前の衆院選では僕のためにもご来援をいただきました。改めて、心から感謝を申し上げます。
さて、冒頭にも記しましたが、乳がんと診断されてから3年半の闘病生活でした。したがって、文部科学大臣政務官を務めておられた1年強の期間も含め、先に記したことはおおむね、がん治療をしながらであったということだと思われます。これは全く驚くべきことであり、強靭な意志のなせる業ではないかと言いようがありません。ただ振り返れば、今年の春ごろから、自動車に接触する事故にあったとしてやや痛々しそうな歩き方をしておられました。今にして思えば、あれは果たして何の痛みだったのか。あるいは、野田聖子議員による追悼演説でも、昨年5月には入院中であったことが述べられていますが、これも何のための入院だったのか。
政治家という仕事の宿命として、病気であることを公表することは慎重にならざるを得ません。自分の生命と政治生命を天秤にかけなければならない場合も十分に起こります。特に宮川先生の場合、山梨県が定数減となりコスタリカ制の対象であったこと、またお隣の山梨2区では前回衆院選挙において自民党元職と自民党現職が二人とも立候補して選挙を戦い、当選した現職が追加公認される形で同様の問題の解決が図られていたことも踏まえると、宮川先生がなかなか他人に弱みを見せることができなかった事情も想像するのはそう難しくありません。そのプレッシャーの中で山梨と東京を往復し、東京では公務や政務をこなし、山梨では地元活動を行い、さらに地方出張まで行ってひまわりのような笑顔でニコニコと過ごすのは、どれだけ辛いことだったのか、身体を痛めつけることだったのか、簡単に推し量ることを許しません。今夏の参議院議員選挙の応援中にドクターストップがかかり、最後の入院となったようです。壮絶の一語に尽きます。働き方改革の一環として「病気治療と仕事の両立」が唱えられることがありますが、そんな簡単に言ってしまってよいのかと9月13日以降、いささか悩んでいます。もっと身体を労わってもらうことはできなかったのかと、つい思ってしまいます。とにかく、宮川典子先生は、病との闘いにおいても、本当によく頑張りました。
衆議院本会議にて登壇する機会があったことは、一つの救いだったと思います。国会議員であっても、特に自民党所属の場合は、なかなか衆議院本会議で登壇し、演説する機会は与えられません。衆議院議員になれば、本会議で登壇し、議事録に自分の言葉を刻みつけることが最初の目標のひとつになりますが、しかし早くて当選2回から、今の当選3回生は機会に恵まれず未経験の方もまだ多いのが実際です。その中で、今年(平成31年)3月14日の衆議院本会議において、宮川典子先生は「大学等における修学の支援に関する法律案」(内閣提出)及び「学校教育法等の一部を改正する法律案」(内閣提出)の趣旨説明に対し、自由民主党を代表して質問に立たれました。結びの数段落を引用します(全文は議事録をご覧ください)。
「いつでも、どこでも、誰でも、何度でもチャンスにアクセスできる国日本、これこそ今後の日本が目指すべき国のあり方だと私は考えます。人生百年時代を迎えようとも、自分の生きがいを見つけるチャンスがあふれていれば、この国に生きる人々は喜びがどんどんふえていく。日本は資源に乏しい国だとよく言われますが、それならいっそ、日本の資源はいつでも誰でもアクセスができるチャンスの数々だと胸を張れる国になるべきです。
その国づくりを引っ張っていくのは、間違いなく教育改革です。もし今の日本が閉塞感に覆われているというならば、未来を切り開く力の源、教育で日本を立て直していけばよいのです。
政治が強い意志を持ち、毅然と改革に取り組んでいくことこそが、子供たちや若者たちの希望を確かなものにすると私は信じております。この改革の歩みを決してとめることのないよう、議場の皆様に強く訴えて、私の質問を終わります。」
決して整った言葉なわけではないかもしれない。理想論でしかないのかもしれない。動画を見直してみると、決して本調子ではなさそうにも見えます。でも間違いなく、宮川典子先生の40年に及ぶ人生が、これらの言葉に美しく結晶しているように、僕には思えてなりません。結果として遺言のようになってしまった、しかし日本国がなくなる日まで国会の議事録に刻まれているこれらの言葉を、文部科学省の方々および全国の教育に携わる方々には今後ずっと励みにしていただきたいですし、政治の道にあるものは改革の歩みを止めることのないよう、遺志を継いでいかなければなりません。
主に仕事面のことを記しましたが、個人的には、飲み会で僕がひどく泥酔してしまい松本洋平議員とともに宿舎まで肩に担いで帰ってもらったとか、編笠山や北岳など山梨県内の登山に行った際には宮川事務所の皆さまやお母様や弟君ともどもご歓迎いただいたとか、大学の先輩後輩のよしみでとてもお世話になりました。重ねて感謝を申し上げるばかりです。宮川典子先生、本当にありがとうございました。
どれだけ言葉を費やしても、もう再び議場などでお姿を目にすることがないのは、誠に残念で寂しいことです。せめて天上にて、早くに他界されてしまったお父様と再会され、肩の荷を下ろして、心安らかに過ごされていることを祈っています。
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