NHK籾井会長の会見をきっかけとし、特にNHK経営陣の公正中立さを巡り議論が盛んになっています。僕も衆院予算委員会での原口一博議員や佐藤正夫議員の質疑や衆院総務委員会での奥野総一郎議員の質疑で籾井会長ご本人の質疑を目の前で見ていますので、思うところはあります。ただ、会長のみならず長谷川・百田両経営委員の言動も含め、報道での取り上げられ方にはいささかの違和感を感じます。今後も野党は集中審議を求めて来られる方針のようですので、それに備えていくつかのポイントを整理しておきたいと思います。
まず大前提として、誰でも「こういう人は僕は嫌いだ/好きだ」というのは勝手ですが、それはただの感想であり信頼のおける客観的な議論ではないと僕は考えます。ですから少なくとも公的な場では批判も肯定も基準や根拠を以てしなければなりませんし、認められません。この場合は、主に放送法を紐解く作業が必要になります。
また、ここで取り上げる方々の見解に、僕もそのまま共感し賛同しているかというと必ずしもそうではありません。しかし、いやしくも立法府で活動させて頂いている者として、特に他者を非難する場合は議論は根拠に基づき厳密に行うべきだと思っており、不当な議論が罷り通るのは許せないと思っているだけです。これがこの作文を執筆するに至った最大の動機です。
○長谷川委員の件について-特定の思想と、公正な判断を行う能力の関係性
2月5日の毎日新聞記事は、長谷川三千子委員が「1993年に抗議先の朝日新聞社で拳銃自殺した右翼団体元幹部について、礼賛する追悼文を発表していた」ことがわかったとして「NHK経営委員の資質を問う声が出ている」と報じました。
放送法によれば、経営委員については第31条で規定されています。同条3項で「禁固刑以上の刑に処せられた者」「国家公務員」「政党の役員」等の不適格者の記述があること以外に資格要件と読める項目は、同条1項の「公共の福祉に関し公正な判断をすることができ、広い知識と経験を有する者」という記述でしょう。この記事でも、この条文が挙げられています。
が、ちょっと待ってください。「右翼団体幹部の拳銃自殺を礼賛すること」と「公共の福祉に関し公正な判断することできること」が、どう関係あるのでしょうか。人がある思想を持つことは、憲法上思想信条の自由として保障されるべきであり、NHK経営委員であっても当然認めなければなりません。誰もがなんらかの思想信条は持っていて当たり前で、それとは別に経営委員としては自分と異なる他の人の思想信条も踏まえて「公正な判断」をすることが放送法により求められているということです。
要するにこの記事は、「右翼の自殺を礼賛するような人は、きっと公共の福祉に関し公正な判断はできない」という論理或は思い込みに基づいて書かれているということです。しかしこの根拠はどこにも記されていません。また仮にそういう人の例が見られるとしても、長谷川氏もまたそうだと断定できる根拠にはなりません。ですから、長谷川氏が経営委員を務めているのは問題だ!という主張をする人は、この点の根拠を示して頂かなければ、ただのいわれなき中傷という誹りを免れ得ません。論者が政治家であれば、逆にマスメディアに対する不当な政治介入あるいは表現の自由に対する妨害という指摘も可能でしょう。
なお長谷川委員は男女の役割分担についても物議を醸したとの報道もあります。内容の是非はともかく、経営委員であることについての議論は全く同じなので、重ねての議論は割愛します。
長谷川委員の文章は記事で引用されている部分しか僕は読んでいませんが、旧かな遣いによる格調の高さと行為に対する熱い思い入れを感じこそすれ、特段社会的に問題がある文章とは思いません。自殺者礼賛が許されないのであれば、まず毎日新聞社は三島由紀夫の文庫本を本屋から撤去する運動を起こすことをお勧めします。
○百田委員の件について―本来選挙運動は誰にでも自由であるべき
百田尚樹委員については、2月4日のやはり毎日新聞記事で「東京都知事選で街頭演説に立ち、南京大虐殺はなかったなどと歴史認識に関する持論を展開した」「不偏不党が求められるNHKの経営に影響力を持つ立場だけに(中略)波紋を広げている」とされています。
議論の中身が問題なのだということで百田氏を参考人招致するのであれば、同様の発言を国会で行っている民主党の松原仁・元国家公安委員長を同時に呼ぶべきです。そして松原議員に「『南京大虐殺はなかった』と主張をする人は、公共の福祉に関して公正な判断は期待できないと考えるが、如何か?」と訊ねてみればよいのではないかと思います。いずれにしても長谷川氏の議論と重なるので、内容についての議論はここまでとします。
さて、内容が問題でないとすれば、何が問題なのでしょうか。選挙運動することが問題なのでしょうか?僕にはよくわかりません。実は放送法第31条4項には「委員の任命については、5人以上が同一の政党に属する者となることとなってはならない」という規定があります。すなわち定数12人の委員中「自民党員が6人」とか「共産党員が8人」となってはいけないということで、同条3項の欠格事由に「政党の役員」があることと併せ、経営委員会が特定政党の支配下になることを防ぐ役割を持っています。が、同時に、上記の条件が満たされなければ、個々のNHK経営委員がどこかの政党に所属し政治活動を行うことも暗黙の前提として認られているわけです。ですから選挙で応援演説を行うことも、放送法上なんら問題はありません。演説を聞いた人が何を感じたとしても、それは良くも悪くも選挙の結果として最終的には候補者が責任を持つことであり、他人が口を挟むことではありません。
百田氏が、応援する人以外の候補者を屑呼ばわりしたことが参院予算委員会で問題視されたようです。まあ僕も選挙をする身として、上品な発言とは思いません。しかし一方で公正中立な選挙演説というのもあり得ず、むしろ最も極端に特定の誰かに肩入れするのが選挙演説の性質上、その瞬間の言葉を捕まえて「不偏不党のNHKが」などと結びつけて記事にする姿勢こそ、極めてあざといものです。選挙運動は公職選挙法に定める特定の例外を除き国民誰でもが行うことができる民主主義の基礎であり、本来認められている個人としての選挙運動の自由を萎縮させるようなメディアの論調はむしろ民主主義の発展を阻害しかねないと思うのですが、いかがでしょうか。
○NHKだけに公平・不偏不党を求めるのは、実は偏った態度
さて、籾井会長の会見および発言です。これについては、既に謝罪と共に「私見を述べたことは不適当であり取り消す」とされていますから、これを蒸し返すのはどうかと考えます。確かにそのような会見でしたし、衆院予算委員会の原口議員との質疑もかなりテンパっていたようで噛み合わないところが目についたため、個人的にはきちんと会長として再び放送法の認識や放送内容の考え方、公共放送としての政府との距離などについて、反省を踏まえ再び発言しなおす機会を持たれるべきだと思います。
ただ一連の報道で不思議なのは「不偏不党が求められるNHK」といった表現が当たり前に散見され、そのことが各氏を非難する際の錦の御旗的な扱いを受けていることです。では放送法ではどうなっているか。確かに第1条2項では、放送の原則の一つとして「放送の不偏不党、真実および自律を保障することによって、放送による表現の自由を確保すること」とされています。また第4条では、放送番組編集の基準として「2.政治的に公平であること」「4.意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」などとされています。そういう意味では、NHKは不偏不党でなければならず、番組は政治的に中立でなければなりません。しかし、この条文はNHKだけに係る文言ではありません。テレビ・ラジオ・そしてケーブルテレビ等も含む「放送」全てが主語なのです。
ですから仮に「放送会社の経営者の歴史認識が不当だったら、放送の不偏不党や公平性が危ぶまれる」という問題意識を持つのであれば、NHKだけを殊更に取り上げるのはそれこそ偏っており、テレビ朝日からフジテレビからテレビ東京から、或は山陽放送から倉敷ケーブルテレビに至るまで、すべての経営者の歴史認識を糺すべきです。報道ステーションは「政治的に公平」で「できるだけ多くの角度から論点を明らかに」しているのでしょうか?そうした対比を行わず、NHKの会長や経営委員の発言のみを殊更に取り上げることは、まさに政治的意図があって行われるものと思います。
○そして新聞雑誌の価値とは
さて、ここまで新聞記事を引用して議論してきましたが、ちなみにその新聞記事は法的に公正性や中立性を求められているのかというと、実はそんな法律はありません。むしろ憲法によって表現の自由が保護されているだけです。政府を監視し民主主義の基礎となるべき在野マスメディアという生い立ちや意義から考えれば至って当然であり、今更敢えて変更すべきこととも思いません。
同時に新聞・雑誌メディアはNHKはじめ放送メディアに「不偏不党」を要求する割に、実は偏っていても法的には誰にも咎められることはない存在だというのは、読む人が胆に銘じておかなければならないことです。本人たちの自覚と矜持以外には、全く中立性や公正性、もしかしたら正確性すらも担保されないのが新聞・雑誌メディアなのです。
朝日新聞や毎日新聞がなぜNHKを殊更に取り上げるのかといえば、もうこれは現安倍政権との関係性を指摘して政権に悪印象を与えようとしているという意図しか感じません。もちろん「政権が自分の意図に添うようメディアをコントロールするのではないか」という問題意識そのものは健全なことです。ただその議論が上記で指摘したように根拠のない思い込み基づくものなので、むしろ逆に「ああ、きっとこの記事を書いた人たちは、自分たちが好きなようにメディアをコントロールしたいと思ってるんだな」と感じてしまうのは僕だけでしょうか。別にそのこと自身が問題とは思いません。「しんぶん赤旗」のように、堂々と自分たちの立脚点を明らかにしていれば、むしろ勉強にもなります。しかしあたかも自分たちが不偏不党であるかのように装い指摘しつつ実は特定の意向や偏見を記事に忍ばせているような新聞記事は、本当にタチが悪いと思います。
放送番組にはBPO(放送倫理・番組向上機構)という機関があり、業界として倫理的な問題や人権に関する問題に対応しています。新聞・雑誌メディアにはそのような機関はありません。誤解を招く記事を書かれても、多くの場合は泣き寝入りです。また放送法は、そんなに簡単に経営者が放送番組を好き勝手にいじれるようにはできていません。したがって多くの議論は法に基づいて考えればただの懸念か杞憂の類いです。もちろん引き続きチェックを続けていくことは必要です。しかし新聞・雑誌には、個別のケースで裁判に訴える以外には、第三者の判断が入ることはありません。内容は誰も保証しないのです。新聞・雑誌は、影響力は絶大ですが、情報としての信頼性はその程度として評価しなければならないのです。
もちろん、だからといって新聞・雑誌を排斥しようというわけではありません。インターネット同様、さまざまなものの見方や玉石混交とはいえさまざまな情報を知ることができるのは社会にとっても個人にとっても実に有益なことであり、むしろそれがメディアの真骨頂です。その中でいかにいい記事を書き紙面をつくるか、記者の腕の見せ所でしょう。同時に、読む人はきちんとそうしたことを弁えてメディアに接する必要があると思います。
そして仮に何かを国会で問題として取り上げるのであれば単に「新聞にそう書いてあったから」で物事を判断したり論じたりすべきではなく、きちんと根拠や法律に基づく議論を行うべきです。縷々述べてきたように新聞だけでは中立性・客観性が保障されないからです。NHKや放送行政も所管する衆議院総務委員会に席を持つものとして、このような視点で今後の論戦を注視したいと思います。
なお、類似の議論が既に産経新聞の2月8日の記事にて高橋昌之氏により論じられています。そちらも併せてご覧ください。