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2012年5月

2012年5月24日 (木)

死因究明二法案、衆院通過にあたり。

●死因究明二法案が衆院を通過!

 5月22日(火)の衆院本会議において「死因究明等の推進に関する法律案」(推進法案)および「警察等が取り扱う死体の死因又は身元の調査等に関する法律案」 (死因身元調査法案)の二法案が内閣委員会の委員長提案として趣旨弁明が行われ、その場で可決された。参議院は問責二閣僚の問題で審議はほぼストップしているが、この二法案は議員立法のため内閣は関係なく審議することが可能で、おそらく今国会で参議院も通過し、成立することが確実な情勢である。

●死因究明推進法の課題

 もともと「死因究明等の推進に関する法律案」は、私が在職中に「異状死死因究明制度の確立を目指す議員連盟」を冨岡勉前衆議院議員らと立ち上げ、多くの方のご参加とご講演を頂いてまとめた報告書をもとに法案化され衆議院に提出されたものであり、一つの仕事がもう一歩で形になるところまでやってきたというのはいささか感慨深い。また私が携わる前からも自民党の下村博文議員や民主党の細川律夫議員らが衆院法務委員会で提言をまとめており、そういった粘り強く取り組んだ先達には改めて深く敬意を表すものである。この法律の成立により、死因をきちんと調査する体制が地域差なく整備され、ご遺体の「声なき声」を掬い上げ後世に役立てることで、日本の治安や公衆衛生が向上し、また本人やご遺族の悲しみや怒りの感情を和らげることに繋がることを期待したい。

 しかしながら法案の衆院通過に至るまでかなりの紆余曲折があり、全てが思い通りになったわけではない。例えば、当初警察庁が法案を準備し、途中で民主党からの議員立法に衣替えして提出された「警察等が取り扱う死体の死因又は身元の調査等に関する法律案」が抱き合わせにされたことだ。

 推進法案はそもそも2年間で死因究明制度全体を省庁横通しで再構築してしまおうという趣旨の法案であり、警察主導の新しい法医解剖制度を今から創設する死因身元調査法案とは論理的に本来両立しない。民主党と自民党・公明党がそれぞれ実績を上げるべく妥協した結果である。また、医療の提供に関連して死亡した者の死因究明も別途検討とされたことで、この点も骨抜きにされた。以前、医療事故調の議論の際に、診療関連死の定義そのものが議論の的となり結局話を整理することができなかった。今回は「医療の提供に関連して死亡した者の死因究明は別途検討」という線引きが行われたことにより、この問題は相変わらず積み残しされた。そもそもあらゆるご遺体に省庁の縦割りの線を引くことはいろいろな意味で不適切だと思うし、本来その解消を目指す法案でもあったのだが、民主党との摺合せの中でこの問題が残されてしまった。残念である。

●死因・身元究明法の問題

 一方、もともと警察庁の法案であった死因・身元究明法についても問題が残る。一つは現行の監察医解剖制度との重複だ。5月18日に行われた衆院内閣委員会での質疑では、みんなの党の山内康一議員の「一つの死体を巡って二つの法で取り合うというようなことは起きないのか」という質問に対し、答弁に立った提出者・民主党の細川律夫議員が「そこは微妙に重なるところがあります」と認めた上で「運用の点で棲み分けるようお願いしたい」という無責任な答弁をしておりこの問題が現時点で整理されていないまま残っていることが明らかにされている。

 また、同じ委員会質疑にて共産党の塩川鉄也議員と山内議員から、遺族への死因の説明に関し、実施された検査のデータや画像診断の画像等客観的データまで遺族に開示するよう何度も質問があったが、答弁に立った細川律夫議員や警察庁の舟本馨・刑事局長は「適切に説明が行われる」としか答弁しなかった。塩川議員や山内議員は「警察が客観データを独占するのではなく遺族に開示して渡せ」という趣旨で質問したのに対し、「適切に説明する」と細川議員および警察庁は徹底して答えており、前向きな答弁のフリをしつつ実はゼロ回答しかしていない。山内議員は「セカンドオピニオンのため」と目的を述べているにも関わらず、警察が説明しかしないのでは、遺族の期待に応えることにはならない。舟本刑事局長などは「ご遺族の要望に応じて、適切かつ十分な開示、といいますか、説明をするよう通達等を発出」と、わざわざ「開示」と口にして「説明」と言い直している。どれだけ警察が死因に関するデータ等の情報を遺族に開示したくないかを示す質疑だった。

 出来ない理由があれば正々堂々と述べればよい。そうではなく言葉の綾で逃げるのは詐術である。国会において詐術を用い、理由なく情報開示しない穴を敢えて塞ごうとしないというのは、現場の怠慢か隠蔽を許そうとしているものと想像せざるを得ない。細川議員と警察庁のそういう姿勢が浮き彫りとなった質疑であった。お時間のある方は衆議院TVにて2012年5月18日の内閣委員会の質疑、とくに塩川議員および山内議員の質疑をご覧になっていただきたい。合わせて30分程度だ。

 ただこの点についてはそんなに悲観していない。実際にこの法律が適用されるような事態が発生した際、遺族がいまの説明に使ったデータや資料を渡せと要求すればそれを現場の警官は拒むことができるのだろうか?法律上義務付けはできなかったものの、「ご遺族の要望に応じて適切、十分な説明を行う」とまで答弁している以上、実際に拒否をする理由が立つとは考えにくい。運用において、きちんと法の基本理念に基づき遺族に対する情報開示が徹底されることを期待したいし、私も引き続きそのような観点から注目し続けるつもりだ。もちろん機会を見つけてきちんと情報を遺族に渡すようルール化するべく警察庁へ働きかけ続けたい。

●今後について

 まずは、参議院においてこれらの点について再び糺される機会が持たれることを期待したい。二院制というのはこういう時のためにあるのだ。参院の存在感を示す絶好のチャンスである。

 また、法律が成立して、いつの間にか新しい制度が始まっていたというのでは困る。新たな死因究明制度の運用およびさらなる検討においては、関係する一部の人のみで行われるのではなく、きちんとオープンな形で公正に議論されることが望ましい。山内議員の質問でも、法医学関係者のみならず一般の医療関係者も含めるべきという意見が述べられている。

 一般論として、国会や政党内の議論は必ずしもクローズなわけでもないのだが、やはり一般の人にはハードルが高く、最終的には一部の人の都合で勝手にものが決まったりしがちである。とくに、一般の関心が薄い分野において政治家と役所がタッグを組んだ日には、実はこれと戦うのは相当骨が折れる仕事となる。
 
この法案について言えば、これまで医療メルマガMRICや私のブログなどを通じ、その政策形成プロセスの公開と共有に努めた。もちろん私の主観が入るので完全に公正・公平な記事であったかは読者に判断を任せるが、そうあろうと努力したつもりだ。私は現時点では国会議員ではないので国会で議論することができない。私が議論の中でおかしいと思う点は、自民党内議論やさまざまな方法で現職議員の方々に働きかける(実際には、議員会館にて意見書を配り歩く等の作戦も行っている)のと同時に、ネットにも意見表明をするように努めた。ネットは徒手空拳の私にとって、議員バッジが無いことを補足する大きな武器となった。もちろん、何人もの現職議員の方々にもご協力をいただいたし、いろんな立場からお励ましをいただいたことにも助けられた。法案成立前にちと気が早いが、心から感謝申し上げる。
 引き続き、日本が「死因不明社会」という汚名を雪ぎ、より安心・安全な社会になれるよう全力で努力するつもりだ。死因究明制度の動向について各位のより一層のご注目をいただきたい。

【参考:死因究明制度に関するこれまでの経緯報告一覧】

●異常死議連の発足から提言まで

異状死死因究明制度の確立を目指す議員連盟が発足しました(MRIC 臨時vol,45 2009/3/10)

異常死議連の誤解を解く(MRIC 臨時vol.55 2009/3/15)

異状死死因究明制度の確立に関する提言(2009/5/14)

石巻市医師会によるAi実施の要望を蹴った警察の姿勢(MRIC Vol.274 2011/9/22)
 
●警察庁提言から法案化まで
犯罪死の見逃し防止に資する死因究明性の在り方について(警察庁 2011//4/28)


『犯罪死の見逃し防止に資する死因究明制度の在り方について』について(MRIC
Vol.171 2011/5/23)


死因究明に関する二法案の相違点(MRIC Vol.367 2012/1/16)

●法案抱き合わせの成立へ

死因究明制度に関する与野党合意について(MRIC Vol.448 2012/3/31)


ふたつの「死因究明に関連する法案」が提出された春。あるいは「麻雀トライアスロン・
雀豪決定戦」と「第70期将棋名人戦」など。
(7ページ目に橋本の活動に関する記述あり)(海堂尊ブログ 2012/4/16)

(2012/8/23 追記)

医療事故調問題と死因究明二法 (MRIC Vol.543 2012/7/18)

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2012年5月14日 (月)

焼畑農業的政治の時代

 民主党議員の言動や、民主党の政治を見ていると、「焼畑農業」を想起する。目前の収穫を上げるため、政策テーマやマニフェストを乱発し、それが立ち行かなくなると次のテーマを持ち出す。政策への期待を次から次へ炎上させて煽るのは得意だが、個々の結果をみるとそれなりの成果を上げつつも期待を裏切ることをあまり厭わず、最終的には有権者との信頼関係を使い捨てにする。しかしその時には次のテーマに移動しているのだ。民主党議員の地域での発言を聞いていても、その場その場の発言が多く、そういう感覚を強く持つ。橋下市長率いる大阪維新の会も似たような傾向がある。最低保障年金はどこに行ったのか?子ども手当も事実上撤回だ。ガソリン税暫定税率の引き下げは?高速道路の無償化は?ムダを削ったら財源が出てくるんじゃなかったっけ?たばこ税の引き上げもあったよね?年金記録問題は一年で解決するとか言ってなかったっけ?そして、よもや前回衆院選の際、民主党政権に政権交代したらその政権が消費税増税を「政治生命をかけて」唱えるなんて、誰が想像できただろうか?

 そういう目で翻ってみると、自民党政治は「水田農業」的だったとも思う。結党以来50周年経ち、できたこともできなかったこともある。アメリカの傘の下とはいえ、戦争は起こさず巻き込まれることもなく平和を守った。高度成長を支え鉄道や高速道路のインフラを整備した。東日本大震災による福島第一原発事故が起こるまで、大規模なエネルギー危機を招くことなくやってこれた。アメリカが真似をしたくなる国民皆保険制度を招き、長寿世界一になった。これらはいろんな方の犠牲を払いつつも、自民党政権下で日本が享受したことだ。ただ、何よりも水田農業的なのは、結党以来「憲法改正」を掲げ続け、実現しなくてもとにかくまだ掲げ続けていることだ。できていないことに対しての非難は甘んじて受けるが、とにかく粘り強くやり抜く姿勢は決して崩さない。それは、地場に根付く政党として、「期待」や「信頼」を最低限のレベルであっても守ることを第一に考えているからだ。定住して村の人々と協力してみんなで田植えや稲刈りをする社会では、人々の信頼と協力を失うことは生きていけないことに等しい。焼畑的・移住型・ノマド的生活をするのならば、その時その時調子よく過ごすことが大事で、長期的な信頼関係は重視しないし、平気で人間関係を切る。

 もちろん、単純に焼畑農業が原始的で水田農業が高度だ、と結論づけたい訳ではない。現実の日本の水田農業が国際価格に見合わぬコスト高に苦しみ後継者不足に悩むように、自民党政治も見直しが必要だ。憲法改正は必要だと思うが、それだけでは選挙に勝てないのと同様である。しかし焼畑農業のデメリットも少なからずある。最大のデメリットは、持続不可能なことに加え、最終的には国土の荒廃をもたらすことだ。政治家が平気でウソをつき信頼を失うことを恐れなくなったら、社会と人心の荒廃をもたらしはしないか。いつか誰かが救世主のように何かを改革してくれるというむなしい希望を国民に広げることにならないか。

 政権交代選挙の際、民主党は自民党より明らかに輝いていた。今、民主党よりも大阪維新の会が魅力的に見えている。そもそも自民党が輝いていたのは、小泉総理の郵政解散の折だ。これも対立候補に刺客を送る、後を考えない焼畑的戦略だった。いみじくも小泉総理が「政治家も使い捨ての時代だ」と語った現場に僕も居合わせた。その予言は的中し続けている。選挙の選択基準は、過去から継続する「信頼」よりもその時その時の「魅力」が勝るようになった。しかし、それで日本はよいのか?子どもや孫たちに、今よりもよい日本を渡すことができるのか?個人的には、信頼と魅力を兼ね備える、使い捨てされない存在感を持つ政治家にならなければならないと思うと同時に、有権者の皆様にも一度冷静に考えていただきたいと切に願う。

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2012年5月 8日 (火)

ダイエットしてわかる「身を削る」ことの大切さ

 今日、衆議院本会議において「税と社会保障の一体改革」の法案が趣旨説明され、審議入りした。周知のとおり、消費税増税を柱とする内容だ。しかし民主党内でも党員資格停止処分を解かれた小沢一郎・元代表が反対を表明しているし、もちろん賛成する野党もない。消費税の是非のみならず、民主党の提案する年金等にも問題があるからだ。したがって野田総理の意気込みにも関わらず、成立の見通しは全く立っていない。

 そして、多くの人が「あれ?」と思うはずだ。「まず政治家が身を削る」と言っていたのはどうなったの?と。公務員人件費は民主党マニフェストでは20%削減とされていたのに7.8%削減どまりであるし、議員定数削減の議論も遅々として進んでいない。父・龍太郎が消費税率を5%にしたときは、同時に中央省庁再編を行い22省庁を12省庁にするなど、極めてわかりやすい形で行政改革を進めていたはずだ。今回はそういった手順がおざなりなまま、野田総理は財務省の言うままに猪突猛進している。政治への信頼は地に墜ちるばかりで、政治を志すものとして、「政党の垣根を超えて」申し訳ない思いで一杯だ。

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 ただ、「身を削る」ことは、単なる「自分たちも痛い目に遭うから増税を納得して」という説得材料以上に、本来は積極的な意味があるはずだ。そういう議論がすっかり置き去りになっていることは、いささか残念である。

 実は昨年、10Kgの自己流ダイエットを敢行した。食事や飲み物に気を付け(野菜の摂取と炭水化物の削減)、毎晩体重計に乗った成果であり、忘年会・新年会・そして花見シーズンと幾多のリバウンド機会を乗り越えてなんとかキープしている。10Kg痩せると、階段を上がったり走ったりしても息が切れなくなるし、行動も身軽になる。半月板を痛めたことのある両膝もすこぶる調子がよい。さらに言えば、支援者の方々にも「精悍になった」などと好評である(唯一難点は、健康の心配をされることだ。実際とても健康です!病気で痩せたわけじゃありません!!)。

 これが行政や政治にも当てはまるのではないか。実は「持ってないと不安」「いざというとき心配」といった理由で、行政組織や政治はいろんな人員・部門を抱えている。確かに備えは必要だ。しかしその心配が時代に合っているか常に見直しは必要だし、実はなければないで何とかなってしまうものかもしれない。そして「抱えていない」方が、いざという時にかえって身軽かつ機敏に動けるというメリットもある。あるいは、三陸沿岸の巨大な防潮堤も、本来は「津波から逃げる時間を稼ぐ」ためのものだ。しかし、むしろそのことが、いざという時の油断と被害の拡大を招いた面はないか。実は「過剰な備え」は人間心理として逆効果を招く面もあるのだ。組織だけでなく、制度についても同様だ。だから規制緩和という言葉が政策テーマになるのである。 

 議員の歳費や議席についてもそうだ。浪人して無収入になってみると、白髪は増えたし多くの方のご支援のおかげで生活できているわけだが、むしろ本当に感謝の心を持つようになったようにも思う。歳費の何割かカットすることで、もっと地域の方々に目を向けることにもなるのではないか。議員が減ることで、物事がもっとスムーズに運ぶようになるかもしれない。

 そういう意味で、積極的な意味で「身を削る」議論をまず率先して自民党がやりだしたら、いろいろ良い結果につながるのではないかと思うのだが。ダイエットした身としては心からそう考えている。

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