被災地の様子その3
倉敷から支援物資を運ぶため遠くはるばる仙台まで来たわけだが、足を延ばして岩手県陸前高田市にトラックで向かった。言うまでもなく、津波被害の極めて大きかった地域だ。GWの初日ということもあり東北道は車が多い。しかし地震のためか路面に凸凹があり運転に注意を要す。出発前に「東北道はジェットコースターのようになってるから気をつけて」と言われたが、本当にそんな感じだった。衣川、中尊寺と源義経ゆかりの地を横目に見ながら、水沢ICで東北道を降り、地道で陸前高田へ向かう。
山道を進み峠を越え気仙川の渓流沿いの国道を下ると、突然川岸に瓦礫が積り出す。「え?」と思うと、全く海も見えないにも関わらず既に津波の跡がある。JR大船渡線竹駒駅付近の鉄橋が「へ」の字に曲がって落ちている。竹駒駅は、陸前高田駅の隣の駅だ。津波が川を遡り、一駅先まで到達していたのだ。
しばらく進むと、圧倒的な破壊の跡が広がった。一昨日から津波被災地を目にし続けているが、ここは津波に「流された」というよりも「砕かれた」という表現の方が当てはまる。中心部まで進むと、一面が完膚無きまでに破壊されていた。もちろん被災から50日が経過し、それなりに整理が進んだせいもあるだろう。しかしあまりにも累々たる瓦礫のほかには何もない。家があったであろう場所には、わずかに土台がその名残を留めるのみ。わずかに残った建物も、3~4階くらいの高さまでは津波を受けた跡があり、何かが窓に引っ掛かっている。車は全て交通事故に遭ったようにひしゃげている。地盤沈下のせいか高田松原第一球場が波で洗われている。地図を見ると公園の中にあった筈なのだが。消防団の車が、やはりひしゃげていた。おそらく団員の方が自らの危険を顧みず避難を呼び掛けているうちに、津波に呑まれてしまったのだろう。合掌。
三陸沿岸はリアス式海岸の地形により、陸に近付くにつれ津波がより高くなり、さらに破壊力を増すという。これまでの地域と比べても、まさにそのように実感する。よく晴れて眩しい日の光の中、がれきを運ぶダンプの砂埃が遠くで舞う。薄く、表現し難い匂いが鼻をつく。「地獄…じゃな」と矢吹秘書が呟いた。ただただ手を合わせることしかできなかった。
一ノ関まで戻り、そこでトラック隊と別れて東北新幹線で東京に。震災で仙台~一ノ関間が不通となっていたが、今日からめでたく再開。しかし一番列車でも何でもなかったので特に何事もなく、淡々と新幹線は走った。車窓から眺めていると、全て世はことも無く、平穏無事に見える。しかし今ここに、そのようにあることを感謝せずにはいられない。諸行無常という言葉が身にしみる。
今回訪れた福島・宮城・岩手と、どこでも自衛隊や各県の警察車両が行き交っていた。仙台の宿舎では札幌市やさいたま市、東京23区からの清掃車両が集まり、朝には一斉に現場に向けて出発していった。「支援物資運搬中」と掲示したトラックもあちこちで見かけた。陸前高田では、瓦礫の中で電柱を立てる工事をしていた。彼らの懸命の働きに心から敬意と感謝を表す。そして何よりも、各地で被災された方が頑張っていた。国会では一次補正の審議が始まった。速やかな成立と執行を願う。
陸前高田市から抜ける際、道端に「ありがとうございました 私達は負けません」と書いた看板が立っていた。ちょうどそのあたりでは桜が満開だった。思わず涙が滲んだ。できることをやらなければ!また再び日本が立ち直るため、僕もできるだけの力を尽くしたい。がんばろう日本!
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