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2011年4月

2011年4月30日 (土)

被災地の様子その3

 倉敷から支援物資を運ぶため遠くはるばる仙台まで来たわけだが、足を延ばして岩手県陸前高田市にトラックで向かった。言うまでもなく、津波被害の極めて大きかった地域だ。GWの初日ということもあり東北道は車が多い。しかし地震のためか路面に凸凹があり運転に注意を要す。出発前に「東北道はジェットコースターのようになってるから気をつけて」と言われたが、本当にそんな感じだった。衣川、中尊寺と源義経ゆかりの地を横目に見ながら、水沢ICで東北道を降り、地道で陸前高田へ向かう。

 山道を進み峠を越え気仙川の渓流沿いの国道を下ると、突然川岸に瓦礫が積り出す。「え?」と思うと、全く海も見えないにも関わらず既に津波の跡がある。JR大船渡線竹駒駅付近の鉄橋が「へ」の字に曲がって落ちている。竹駒駅は、陸前高田駅の隣の駅だ。津波が川を遡り、一駅先まで到達していたのだ。

 しばらく進むと、圧倒的な破壊の跡が広がった。一昨日から津波被災地を目にし続けているが、ここは津波に「流された」というよりも「砕かれた」という表現の方が当てはまる。中心部まで進むと、一面が完膚無きまでに破壊されていた。もちろん被災から50日が経過し、それなりに整理が進んだせいもあるだろう。しかしあまりにも累々たる瓦礫のほかには何もない。家があったであろう場所には、わずかに土台がその名残を留めるのみ。わずかに残った建物も、3~4階くらいの高さまでは津波を受けた跡があり、何かが窓に引っ掛かっている。車は全て交通事故に遭ったようにひしゃげている。地盤沈下のせいか高田松原第一球場が波で洗われている。地図を見ると公園の中にあった筈なのだが。消防団の車が、やはりひしゃげていた。おそらく団員の方が自らの危険を顧みず避難を呼び掛けているうちに、津波に呑まれてしまったのだろう。合掌。

 三陸沿岸はリアス式海岸の地形により、陸に近付くにつれ津波がより高くなり、さらに破壊力を増すという。これまでの地域と比べても、まさにそのように実感する。よく晴れて眩しい日の光の中、がれきを運ぶダンプの砂埃が遠くで舞う。薄く、表現し難い匂いが鼻をつく。「地獄…じゃな」と矢吹秘書が呟いた。ただただ手を合わせることしかできなかった。

 一ノ関まで戻り、そこでトラック隊と別れて東北新幹線で東京に。震災で仙台~一ノ関間が不通となっていたが、今日からめでたく再開。しかし一番列車でも何でもなかったので特に何事もなく、淡々と新幹線は走った。車窓から眺めていると、全て世はことも無く、平穏無事に見える。しかし今ここに、そのようにあることを感謝せずにはいられない。諸行無常という言葉が身にしみる。

 今回訪れた福島・宮城・岩手と、どこでも自衛隊や各県の警察車両が行き交っていた。仙台の宿舎では札幌市やさいたま市、東京23区からの清掃車両が集まり、朝には一斉に現場に向けて出発していった。「支援物資運搬中」と掲示したトラックもあちこちで見かけた。陸前高田では、瓦礫の中で電柱を立てる工事をしていた。彼らの懸命の働きに心から敬意と感謝を表す。そして何よりも、各地で被災された方が頑張っていた。国会では一次補正の審議が始まった。速やかな成立と執行を願う。

 陸前高田市から抜ける際、道端に「ありがとうございました 私達は負けません」と書いた看板が立っていた。ちょうどそのあたりでは桜が満開だった。思わず涙が滲んだ。できることをやらなければ!また再び日本が立ち直るため、僕もできるだけの力を尽くしたい。がんばろう日本!

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2011年4月28日 (木)

被災地の様子(その2)

 今朝は、まず亀岡事務所のご紹介でJA新ふくしまを訪問。倉敷・早島で、福島産の果物や野菜などの即売会などをすることができないかとご相談した。やはり、原発の風評被害や出荷制限などがあり、思うように商売にならない様子。「安全第一だから出荷制限がかったものは出すわけがない」と。しかし実際には安全なものでも「福島県産」ということで流通に乗りにくい。お力になれるよう、タイミングなどを見てお声がけをいただくようお願いしてきた。組合長さんがぽつりとおっしゃった言葉が心に残った。「作れるだけ恵まれている。売れるかどうかなんて贅沢な悩みだ。浜の方は家も田んぼも全部なくして、作物を作ることもできない人もいるのだから」と。

 その後亀岡事務所に戻り、積み荷を引き渡す。避難所では野菜ものが不足しているようで、お漬物が特に喜んでいただけたようだ。また、美味しい日本酒の調達もできた。本来ならそこで今回のミッションは終了だが、予定を延長して宮城県まで足を延ばすことにした。宮城3区の西村明宏・前衆議院議員の地域も津波で大変だから物資を持って行ってくれよ、と亀岡よしたみ先生から依頼され、水や洗濯機などをトラックに積んで福島を出発。

 東北道で宮城県に入って白石ICまで行き、角田市から山元町に抜けた。この山元町も津波被害の大きかった地域。普通に国道や県道を走っていても、津波により荒野になってしまった地域が眼前に広がる。おそらくは発災当初からはかなり整理も進んでいるのだろうが、それでも全てが流された跡を見ると、言葉がない。どれだけの方がこの中に呑まれてしまったのか。。。無言になりながら、亘理町を経て仙台東部道路に入り、名取市の西村事務所に向かった。福島県よりも宮城県に入った方が、建物や道路に地震の被害が多いようだ。路面の補修も進んでいるが、それでも段差が多く徐行気味に走らなければならない。それだけ地盤の沈下が大きかったということだ。建物の壁面や地形の斜面が崩れているのも見かける。

 西村事務所では、ご本人は所用のため不在であったが、ボランティアの菊田さんから、仙台付近での震災時の様子などをお伺いした。政令指定都市の仙台でも、3週間程度はガスや水道、物流などがに不自由な状況だったことなどをお伺いし、改めて災害の大きさを認識させられた。夜は、仙台郊外の宿泊施設に。札幌市やさいたま市、東京都23区など多くの自治体の救援派遣の方々と一緒になった。明日、もう少し被災地の視察を行い、帰途に就く予定。

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(写真:津波により流されたと思われる自動車。亘理町)

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(写真:復興住宅の建設も急ピッチに進む。亘理町)

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(写真:西村明宏前衆議院議員の事務所。張り紙が水に不自由だった時を物語る。名取市)

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(写真:札幌市災害派遣の車両。他にも各地の車両があった。宿舎の駐車場にて。仙台市)

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2011年4月27日 (水)

被災地の模様

 トラックで南相馬市、相馬市、新地町を訪問。いずれも東日本大震災における大津波の被災地。津波の爪跡は未だ極めて生々しく、正直、言葉がない。本来、集落や田んぼであったところが、一面の泥地として広がる。そしてその中のそこかしこに、家の基礎があったり、車などが転がっていたり、高圧電線の鉄塔が倒れて泥まみれになっていたりする。その中を、自衛隊の方々が捜索や片付けの活動を黙々としている。新地町では、岡山県奈義町の日本原駐屯地の部隊が活動しており、現地の方からは「岡山の自衛隊の方には本当によくしていただいた」とおっしゃっていただき、少しうれしく感じた。また、運んだ支援物資も大層喜んでいただけた。

 サーフィンのメッカとして有名だった砂浜は、地盤沈下により砂浜ごと無くなっていた。その先に見える火力発電所は、タンクがへちゃげていた。道路を走れば、普通のきれいな舗装道路でも突然段差があって頭をぶつけたりする。各地の方にお話を伺ったが、「このあとご遺体の確認に行きます」というようなお話があり、まだまだ到底「復興の鎚音が」などという景気のよさげな状況ではない。現場の空気では、増税なんて全くあり得ない話。明日で、被災から四十九日。合同法要の掲示がちらほら目に付く。

 同時にその一方で、道路一本隔てて津波が来なかったところにはごく普通の家庭や日常があり、多くの方がそこで生活されていた。津波が届いた場所とその先では、風景が全く異なる。それが一線を境に隣り合って存在している。秩序と破壊が並んである。その線を越えたら、もう日常の風景なのだ。このギャップは、正直、報道ではわからなかった。そしてむしろいま生活している方々も、原発事故の余波やさらにその風評で今後苦しまれることになるのではないかとも感じた。南相馬市でも、相馬市でも、新地町でも、「ここは安全なんです。こうやって自分たちここで頑張ってるってことを、ぜひ多くの方に伝えてPRしてください!!」と言われた。
 
 夜、亀岡先生の緊急集会に同席させていただき、福島の地元の方の生の声をお伺いした。原発事故の早期終息などの訴えもあったが、一番ショックだったのは「県外では福島の女性はお嫁に要らないと言われていると聞いた。子どもたちの将来が心配だ」というもの。その場で福島県外から来た唯一の人として、本当に恥ずかしく情けなく、申し訳ない思いをした。率直にその思いをお伝えした上で、倉敷にて「福島のお酒を買ってきます!」と注文をとったところ、次々と追加注文をいただき合計50本にも上ったことをご紹介し、「心無いことを言う方も確かにいます。でも、心ある方もたくさんおられることを、ぜひお心に留め下さい」とお話した。すこしでも、励みにしていただければと思う。

 そういった言葉を「風評」とひとくくりで言ってしまうが、その対象となった方々にとっては、ひとつひとつが極めて心ない、せつない、胸のつぶれるような言葉だろう。被災地の外にいるものこそ、深く気に留めなければならない。

被災地の模様

(写真:撮影地は海岸から2Kmの地点。左側に70戸、右側に90戸の集落があった、と説明された場所。手前は自衛隊のトラック。南相馬市原町区)

被災地の模様

(写真:上の写真のすぐ左手。津波の被害を受けた高齢者施設。南相馬市原町区)

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(写真:倒壊してしまった高圧鉄塔。南相馬市原町区)

被災地の模様

(写真:サーフィンのメッカだった海岸。沈降により砂浜が消失。先に見えるのは東北電力原町火力発電所(停止中)。南相馬市原町区)

被災地の模様

(写真:説明してくださる熊倉・相馬市議。津波でご自身の奥様を亡くされながら、毎日、地域の方々のご遺体の確認にあたる。「長年お世話になった地域への恩返しのつもり」と。相馬市磯部地区)

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(写真:陸上自衛隊日本原駐屯地の方々による掲示。新地町役場)

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福島に着いた

福島に着いた
 無事福島に到着。亀岡事務所にてトラッグ隊および埼玉の田中良生・前衆議院議員の一行と合流。一路南相馬市に向かっているところ。
 見たところ福島市内は至って平穏で日常を取り戻しているようだ。ところどころ瓦が落ちた跡が見られるくらい。

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2011年4月26日 (火)

福島に向け、トラック隊出発!

 先のエントリで、福島に行くことを記した。その後多くの方のご協力をいただき、衣類、子供服、手作り石鹸、食品(おかず類、お漬物、ふりかけなど)、ジュースや栄養ドリンク、衛生用品、文具、そしてお菓子など、いろいろな物資をお預かりすることができた。また、多額のカンパもいただいた。さらに、福島の日本酒の注文も多数いただいた。向こうで買い付けてくる予定。すべて、多くの方々の、被災された方々への思いの結晶だ。ご協力に心から感謝申し上げます。ありがとうございました。

 昨晩、レンタルしたトラックに上記の荷物を積み込んだ。本当は僕も運転して行く予定だったが、週末体調を崩したためにそれは自重。矢吹秘書と高坂秘書に託した。無事に出発した…と思ったら、今朝電話が掛ってきて「大変じゃ!タイヤがパンクした!!」のだそうだ。後輪の二列になってるタイヤの内側がパンクしたそうで、すでに修理して、北陸道を安全運転で激走している模様。まあものごとなかなか予定通りスムーズには行かないが、そんなことではへこたれない。

 僕も体調が戻ったので、これから新幹線で上京し、あした福島でトラック隊と合流して現地に向かう。自分ひとりで行くのではない。多くの方のお気持ちとともに行くのだと思っている。現地の様子など、また追ってご報告したい。

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(写真:積み込み風景。本当にたくさんの荷物をお預かりしました。感謝!)

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(写真:「頑張るぞ!」とガッツを見せる矢吹・高坂両秘書)

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(写真:勇躍、福島に向け出発するトラック。この約8時間後、後輪のタイヤがパンクした(笑))

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2011年4月21日 (木)

今日の小ネタ

「広告塔募集」と書いてある広告塔。「ぼく、友達募集中です…」みたいな感じ?今日訪問した広島県福山市にて発見。

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2011年4月20日 (水)

来週、福島県に行ってきます。

 最近、見かけるようになった嫌なニュース。福島県から転入してこられた方に放射線検査を求めた自治体があったり、福島ナンバーの車の飲食店を拒否したりするような話があるようだ(たとえば産経新聞「茨城・つくば市、放射線検査証明書を要求 避難先、人にも風評被害」)。また、今日の読売新聞の「編集手帳」によると、福島県から他県に出た人の車(会津ナンバー)に、駐車場で誰かが「帰れ、来るな」と落書きをしたという。

 原発事故の報道にさらされ、不安なのはわからないでもない。みんなそうだろう。だけど、インフルエンザのように感染するものではないし、今なお福島県には多数の方が不自由のある中で生活しておられるわけで、その方々にとっては胸のつぶれるような話ではないだろうか。一方で海外からは、「日本は全部危ない」といった感覚があるようで、日本からの貨物船が入港拒否されたり、海外留学生が親元から「帰れ」と言われて困ってるような話も聞く。普通に倉敷で生活してる身からすれば全く不愉快な話なのだが、身内でやってるのであれば他人を責めることはできない。

 政府や政治の対応も、、、、あんまりコメントする気にもならない。もちろん多くの方が一生懸命努力しておられるだろうと思う。しかし避難エリアなどを巡って混乱をきたしていることも間違いない。また政界方面では火事場泥棒もちらほら見えるような気がするのも情けない。菅直人総理は避難所に行って「頑張ろう!」と言うのはやめた方がよい。言われた誰もが「お前が頑張れ(怒)」と思うだろうから。また、松本剛明外相は英語に堪能だそうだから、海外向け情報発信をどんどんしてほしい。自民党で言えば、麻生太郎元総理なんかが英語記者会見をどんどんやってくれるといいのではないか?ちょっと口を滑らせそうで怖いけど…。

 そんなこんなで、県議選もひと段落したので、遅まきながらまず自分にできることを頑張ろうと考えている。具体的には、橋本をご支援いただく有志の方々に物資や資金のカンパをいただき、トラックを運転して福島県に行く計画を立てている。現地では、同じ浪人仲間の亀岡偉民・前代議士にご案内をいただき、避難所や被災地に伺うつもりだ。そして今回をきっかけに、ささやかながらでも倉敷・早島と福島のご縁を結び、風評被害に苦しむ方々の力になれるようなことを模索したいと思っている。

 今週はその準備などでいろんな方にお願いに歩いている。ご協力を快諾くださった皆さまに心から感謝。石原軍団のような大規模なことは到底できないし、全体から言えば焼け石に水でしかないのもわかる。時期もずいぶん遅くなった。しかしある人曰く、「できることを、できる人がすればそれでよい」と。この言葉に背を押された気がする。一人でも二人でも、ほっとしていただけるようなことをしてきたい。

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2011年4月14日 (木)

いま、政治に願うこと。

 震災が起きて一カ月がすぎた。大きな余震も続き福島第一原発事故の終息もまだ予測もできない状態が続いている。

 政界では、いろいろな動きがある。野党側では、自民党にて大連立が検討された。一応当面は「しない」という結論が出たようだが、余燼はくすぶっているようだ。一方、与党・民主党内では小沢一郎元代表が政権批判文書を出したようだ。内閣不信任案に賛成することを示唆したという話もある。そうしたことを通じて政治が良くなると期待する向きもあるようだが、ちょっと待ってほしい。

 これらの動きは、いずれも「一定期間、物理的に解散総選挙が不可能」という状況の中で起こったことと説明できる。野党からすると、いくら攻めても解散総選挙→与党に復帰という道筋が無いのだから、むしろ政権に協力してポイントを稼ぐことを考える。一方民主党内は、総理大臣の伝家の宝刀である解散権が封じられているわけだから、いくら総理を批判しても自分たちがクビになる心配はない。存分に内紛できる状況なのだ。

 だから、そのいずれも「復興のため」という大義名分はあるだろうが、実はいずれも状況に応じた合理的行動を取ろうとしているにすぎない。それを非難する気はないが、いずれにも熱くなる気もない。政治学的に後世に貴重な記録を残すことになるだろうと思うが、それは今の国民生活とはほとんど関係がない。過度な期待をしてはいけない。

 それよりも個人的には今回の震災にあたり、自民党が率先して募金や救援物資の配送業務にあたったことに胸を張りたい。自民党Webサイトによると「3月15日から救援物資の受付を開始し、3月19日に最初のトラックを被災地に送って以来、4月14日までに飲料水約22万リットル、マスク約200万枚、携帯カイロ約50万個など合計486トン(トラック積載量ベース)の救援物資を被災地に送りました。」とのことだ。前のエントリでも書いたが、倉敷の有志の方の自転車を宮城県気仙沼市および七ヶ浜町にお送りできたのも、自民党本部の尽力にもよる。ほんの少しだけど、全国組織であることを生かした取り組みができたと思っている(なお、自民党本部の物資の受付は終了している)。

 とにかく政治は、今困っている被災者の方々に一刻も早く支援が行き届くことに力を尽くすべきだし、そうなっていないのならば、よりよい体制に一刻も早く変わってほしい。与党・野党とも、それぞれの立場の意味をきちんと弁えながら、できることをしてほしい。そう願うのみだ。

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2011年4月11日 (月)

岡山県議選を終えて

 この11日をもって、東日本大震災から1カ月が経った。まだ被害の全容が明らかにできず、また福島第一原発の事故も継続中ということで、改めて災害の規模の大きさを思う。また余震も続き緊張が絶えない。被災された方々に重ねて深くお見舞いを申し上げます。また炊き出し等のために現地に行ってきた方の話を聞く機会が何度かあったが、現地は本当に辛い状況が続くようだ。がんばろう、日本。

 先日、倉敷のある方から折りたたみ式自転車を数十台を被災地に送りたいというお話をいただき、自民党本部に依頼して岩手県大船渡市と七ヶ浜町にお送りするお手伝いをした。通学の足としてとても喜んでいただけるとの由。被災地から倉敷に来られている方もおられる。できることをしてさしあげたい。

 そんな中ではあるが、岡山県議会議員選挙が10日に投票日を迎えた。この国難の時だからこそ、信頼できる方を県議会に送ってください!と応援の活動に励んだ。結果、倉敷市・都窪郡選挙区では、同志の候補者が全員当選を果たした。各候補をご支援をいただいた皆さまに、深く感謝の気持ちを持ちつつ、僕も頑張らねば!という思いを新たにした。ただ同時に、他の選挙区において個人的に頑張ってほしいと願っていた方で残念な結果だった候補もおられ、選挙の厳しさも同時に味わった。全体的に日頃の活動がやはり大事。自らの戒めとしなければならない。「次はあんたの番で!!」とたくさんの方におっしゃっていただいた。とてもうれしく、ご期待にこたえねば、と強く思う。

 全国的に見ても、各地で自民党系の候補者の当選が重なり、じわじわとご期待を取り戻しつつある感じがする。とくに三重県知事選は、民主党岡田幹事長のおひざ元にて自民推薦の鈴木英敬さんが当選。以前いろいろご一緒して親しくしていたので個人的にもうれしいし、全国的にもこの勝負は二大政党の真っ向勝負での勝利で影響が大きい。災害への対応や復興支援をまず行いながら、引き続きご信頼をいただき仕事させていただけるよう、頑張ろう!

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2011年4月 3日 (日)

面白うてやがて哀しき大連立

 県議選も静かながら熱を帯びる昨今、にもかかわらず「大連立」の話が報道上を飾っている。確かに今は非常時、そういう方向性も一つの選択肢としてはあるのかもしれない。浪人中の身としては仮にそうなるというのであれば嫌も応もない。執行部の判断に従うのみ。

 ただ、いくつか留保点がある。賛成できるもの以外は賛成してはいけない。震災復興のために連立するのであれば、それ以外の政策でもともと対立しているものを、「連立を組んだから」という理由でウヤムヤにするのは本末転倒だ。与党が自民党の政策をすべて丸のみする場合のみ連立に応ずるべきである。また、地震発生時に追求していた菅総理の違法献金問題などは、棚上げになっているだけで帳消しになったわけではない。そのあたりについて、政権内部にあってもけじめをつけさせるべきである。意見が合わなければ速やかに辞任する決意がいるし、個人的にはいったん連立組んでもすぐ対立してオシャカになる可能性が高いと思う。そうならなければ、日本の政党政治は死んだということ。いずれにしても「やがて哀しき」ものだ。

 僕はよくわからないんだけど、今時点で最大の危機は福島第一原発事故だと思う。この問題の帰趨は、政権の枠組みとは全く、全く関係ない。大連立が何を解決するというのか?また、復興支援について協力するというのは、自民党のみならずほぼ全野党一致できるはず。にもかかわらず大連立の話が出るのは、極めてウサン臭い。なんとなく、政権を延命させたいだとか、与党になって心地よい思いをしたいとか、そういう臭いがしてならないのだ。また大連立について、民主党内部の声も聞こえない。大連立なんて、民主党に有為の人材がいないといわれているようなもので、民主党諸氏にとっても恥辱以外のなにものでもないと忖度するが。そういえば民主党は会派的に分裂してたよね。そもそもまとまれるのか?これもウヤムヤになってるけど。

 いま国難において、国会も一丸になって力を合わせて頑張ってほしい…というのは間違いなく今の国民の悲願だ。また、黄川田徹議員や小野寺五典議員はじめご家族が被災された議員だっている中、国会もその期待に応えたいという気持ちもあると信じる。その上で、その思いをわが身の保身に悪用しないだけの理性があることを、各党執行部および現職議員諸氏に期待してやまない。

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