倉敷・早島の地名を歩く

議員をしていると、自分の地元の隅から隅まで出かけて歩きまわる。すると地域のふとした魅力や歴史との出会い、気づきがある。多忙ゆえついつい気持ちの余裕がなくなりがちだが、そういうものを感じる感受性と好奇心は残しておきたいものだ。

 私の選挙区は岡山県第四選挙区、すなわち倉敷市(旧真備町、船穂町を除く)と早島町である。「白壁の町」として全国的に有名な観光地である倉敷美観地区を抱えているが、倉敷・早島の魅力はそれだけではない。土地の歴史的成り立ちと地名についてとりあげ、その一端を綴りたい。

 中世まで、現在の倉敷市の平野部は「吉備の穴海」と呼ばれる海だった。酒津のあたりが高梁川の河口で、そこから干潟や砂州が広がり、島々が浮かんでいた。およそ四百二十年前、戦国時代末期の武将宇喜多秀家が早島から向山を経由して酒津まで堤防を築いたことから、人工的な干拓の歴史は始まるようだ。この堤は「宇喜多堤」と呼ばれ、今年は早島町では宇喜多堤四百二十年記念として多彩なイベントを行っている。そこから、わが地元の多くの地域が先人たちの努力により形作られ続けてきた。

 そのような歴史があるため、倉敷市・早島町には地名に海に関わるものが多い。まず目につくのが「島」だ。西から東に向けて思いつくままにあげれば、玉島、柏島、八島、乙島、現高梁川を越えて片島、連島(つらじま)、亀島、水島、児島、そして羽島、松島、早島。ちなみにその先は岡山市箕島で、やっぱり島。こうした元の島々には神社仏閣があることが多い。玉島の羽黒神社や円通寺、倉敷・鶴形山の阿智神社や観龍寺、足高山の足高神社、連島の箆取神社、児島の鴻八幡宮、早島の鶴崎神社など。いずれも今は小高い丘の上にあるが、境内からの眺めは素晴らしい。瀬戸内海に面していればまさに多島美が広がるし、干拓の結果内陸部となっていても、今は田圃や市街地となっている平野部に、昔は行き交う船や投網を打つ漁師の姿なども見られただろうなと思わせる風景が一望できる。

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(松島・両兒神社から南方を望む。ここは海峡だったのかな…)

 源平藤戸の合戦の古戦場も倉敷にある。海を隔てて対陣中船が無く困った源氏方において、漁師から間道(おそらく干潮時に渡れる干潟)を聞いた佐々木盛綱がただ一騎、岩からざんぶと海に乗り入れて見事敵陣に一番乗り、という話になるわけだが、これはやはりその近辺が相当遠浅な海だった証拠だ。源氏方の陣は向山の南側あたり、平家方の陣は現在の藤戸寺あたりにあったという。その回りはすべて海。地名としては、粒浦、粒江、浦田、笹沖、沖。あるいは帯江、豊洲、早沖、早島町の前潟といった具合。いかにも干潟にふさわしい地名が続くではないか。種松山の南側でも、広江、福江、松江。また黒崎、赤崎、勇崎といった岬と思しき地名もある。玉島の沙美(さみ)は今でも砂浜の海水浴場があるし、その先倉敷市最西端は南浦(なんぽ)。東端は児島の琴浦、唐琴(からこと)。連島にも西之浦、宮之浦。美しさを感じる。

 一方で、島以外で古くから人々が暮らす陸地だった地域も、地名にそういう空気を残す。まず平安時代の庄園の名残を示すその名もずばり庄。山地や栗坂もある。中庄、生坂、西坂、浅原。児島でも味野、本庄。児島では塩が特産品であった。そのまま塩生(しおなす)という地名に現れる。

 倉敷市には南北に高梁川が流れるが、一時はその高梁川も西高梁川と東高梁川に分岐していた。明治時代の干拓で東高梁川は廃川となったが、概ね現在の水島臨海鉄道のルートに沿って現在の水島港に注いでいた。地名で辿れば酒津から、川入、水江、安江、四十瀬と続く。井戸を掘れば水も豊かに出たのだろう。上富井、東富井、西富井、福井。そして江長を抜けて現在の水島に至る。東西高梁川に挟まれる地域は文字通り中州、中島。

 干拓の目的は、当然ながら新田の開発。ずばり新田という地域もあるし、西中新田、西阿知町新田、福田には古新田(こしんでん)。北畝、中畝、南畝も田畑ならではの地名。水島の亀島近くの人々が開発したのが連島の亀島新田。その次の開発された地域だから鶴新田。なかなかユーモアもある。

 ちょっと意識して歩き回っていると街の過去や歴史が蘇ってくる瞬間がある。眺めが変わって見えることもある。倉敷・早島でいえば、瀬戸内の海辺の町、干拓により先人が切り開いた土地としての姿だ。そしてさまざまな人々との出会いを重ねて今に至る。選挙区を歩くのも、決して苦労だけではない。

(月刊『自由民主』掲載予定)